The Beginning EVE
小次郎編 第五話

199X.4.13 どんよりした朝
渋谷 ハチ公前スクランブル交差点


 いつもは若者でごった返しているこの場所も、こんな時間じゃまだ人気がない。
 通勤途中のビジネスマン、ひまそうな老人、そして、ラフな服装をした自由業っぽい男……たとえばオレだ……なんかが、無精ひげを生やしたままタラタラと駅の改札から吐き出されてきて、赤信号を見上げ、止まる。
 ファッションビルのオーロラビジョンが、戦略通りに売り出されたアイドル歌手の甘ったるいビジュアルイメージを垂れ流している。目元がちょっと弥生に似 てるな、涼しげで、哀感があって……。見上げていると、目をそらすひまもなく、ふいに映像がニュースに切り替わった。
 『昨日関西地区で大量に発見されたニセ一万円札は、現在のところ少なくとも百枚以上であると予測される。今後もその数は増える見込みで、警視庁では、防犯カメラに写った“マスクに野球帽の男”を中心に捜査を急いでいる……』
 オーロラビジョンに、次々と最新ニュースが流され始める。
 信号が赤に変わった。
 オレは早足でスクランブル交差点を渡り始めた。
 歩く足も、力を込めた肩も、しらず震えていた。
 怒りで。屈辱で。
 ちくしょう……!


 「ずいぶん人を待たせるね」
 指定された喫茶店に入ると、薄笑いを浮かべながら男が言った。
 「楽しみはなるべく後に取っておくほうでね」
 「ほぅ。私との対決を楽しみにしてくれていたわけか」
 男は日に焼けた頬をピクリと震わせた。笑ったらしい。
 大通りに面したガラス張りの喫茶店。ソファに深々と腰掛けると、オレはコーヒーとサンドイッチを注文した。食欲なんて昨日の昼からまるっきりなかった が、この天城小次郎様ともあろうものが、敵に弱っているところなんか見せるはずがない。オレはすぐに運ばれてきたサンドイッチを、水とコーヒーでむりやり 喉に押し込むようにして、ムシャムシャと食ってやった。
 男は無表情で、向かい側のソファからオレを見ている。
 「……弥生はどうなんだ」
 「お預かりしてるよ。餓死しない程度に面倒も見ている」
 「……それを聞いて安心したよ」
 男は組んでいた腕をほどき、自分のアイスコーヒーを一口飲んだ。
 鍛えられた腕だった。遠目で見ていたときはわからなかったが、手首から肘にかけて魚の腹のように徐々に盛り上がり、シャツに隠された二の腕もがっちりと 固い筋肉で覆われていた。男としちゃ小柄なほうだし、体格もいいとはいえないが、男の全身には常に緊張感と気迫がオーラのように漂っている。
 こういう男に、一人、会ったことがある。おやっさんだ。
 オレは確信していた。つまり、こいつはプロだ。なにがしかの訓練を受けた男だ。
 そんなヤツを相手に、オレは一人で弥生を救えるのか……?
 いまのところ、事件の経過をオレなりに書き込んだ桂木探偵事務所手帳には、天城小次郎は0勝2敗だと自分で記していた。……不本意ながら、な。まずは、 弥生を人質に取られて、言うことを聞かざるをえなくなったところで、一敗。ついで、罠にかかって偽札換金代行なんてことに足をつっこんじまったあげく、犯 人にされちまった点で、一敗。
 完敗だ。弱みを握られたオレの前に、この男は堂々と現れた。もう、おまえは自分に逆らえないだろうってことだ。
 「偽札を換金する作業は、本当は……」
 オレは冷静な言い方を心がけながら言った。
 「八坂玲子にやらせるつもりだったんだろう」
 「あぁ、そうだ」
 男は頷いた。「だが、余計なことをしたので殺してしまった。その代わり、新しい虫が飛び込んできた」煙草に火をつけて大きく吸い込み「おまえだよ」と言う。
 それからクツクツと笑い出した。まったく……いやな笑い方だぜ。
 男は笑いをすうっと、水が乾いた地面に染み込むように、顔の中へ引っ込めた。真顔になると、男の顔は妙に迫力があった。目に表情がなく、こちらを威圧する迫力を秘めているが、どこか……どこか上の空で、遠くを見ているようにも見える。
 なにを考えているのかさっぱりわからない。オレ様の観察眼をもってしても、なにも掴めない。
 「次にやってほしいのは……」
 男は煙草の火を消して、オレを見た。
 「別の場所での換金だ」
 「ちょっ……ちょっと待てよ、おい。あれだけ報道されて、紙幣識別装置の製造メーカーも対策チームを組んで乗り出してるし、各銀行や郵便局も機械の使用中止や、行員によるチェックを始めてる」
 「ほぅ、随分詳しいな。おおかた、不安にかられて新聞やテレビにしらみつぶしに目を通したと見える」
 「ぐっ…………あっ、あったりまえだ。気にならないほうがどうかしてるぜ。これ以上続けようとするってのも、頭がおかしいとしか思えねぇ」
 「あの紙幣がどれだけ発見されずに流通するか、知りたかったんだがね。あいにく、機械は騙せても人間の行員には無理だった。だが、そういった対策を考えているのは都市部の金融機関のみだ。地方に行けばまだ騙せるし、発覚も遅れる」
 「…………なにが言いたいんだ?」
 男はアイスコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
 「おまえには、紙幣と共にちょっと遠出してもらうつもりだ。私の計画では、三千万円を換金してすっぱりと足を洗うことになっている。それ以上はしない。三千万円あれば十分だ」
 「十分って、なににだよ」
 男は答えなかった。背中を向け、歩き出す。
 振り返らずに言う。
 「私の指示通りに動け。地方都市をぐるりとやって帰ってくれば……」
 クツクツと笑う。
「女はおまえの元に返す。情けない、口ばかりの迷探偵、天城小次郎の元にな」
 オレは唇を強く噛んだ。
 鉄臭い血の味が広がる。
 握った拳が、ブルブルと激しく震え始めた……。


 喫茶店を出て大通りを歩いていく男を、燃えるような目でガラス越しに睨みつけていた。
 横断歩道を渡り、遠ざかっていく背中。
 その周囲の、有象無象の人々。
 ふいに、その光景にパッとカラーをたしたように、淡い黄色のワンピースを着た少女の姿が動き出した。
 近くのクレープ屋に行列している女の子たち。その中からふいに、ピョコッと、黄色いかたまりが転がりだしてきて、男の歩いていったほうを背伸びしてみつめる。  オレは、おやっと思って少女をみつめた。
 少女のぽってりした唇が、なにか動く。呼びかけているように、迷うように……。
 走り出し、遠ざかって消えかけていた黒服の男に向かって一目散に駆ける。
 …………知り合いか?
 オレはあわてて喫茶店を出ようとした。男のことが何かわかるかもしれない!
 男は振り返り、少女に向かって眉をひそめ、首を振った。少女も首を振り、なにか呼びかける。まんまるな瞳が大きく見開かれ、泣きそうになって、なにごとか叫ぶ。
 男は乱暴に振りきり、行ってしまう。
 オレは喫茶店を飛び出した。石の階段を駆け下り、大通りに出て、黄色いワンピースを捜す……。
 横断歩道の手前で、オレは立ちつくした。
 有象無象の人々が横切っていく。クレープ屋の前には相変わらず少女達の列。
 だが……。
 ぽってりした唇の、黄色いワンピースの少女を、オレは見失ってしまったらしい……。
 立ちつくしていると、いつのまにか横に男が立っていた。
 知らない男だ。こちらを見ているので、オレは不機嫌に目をそらし、とりあえず落ち着こう、缶コーヒーでも買うかと、ブラブラ歩き出した。
 男はついてくる。
 うさんくさそうに振り返ると、男も足を止めた。
 妙に目つきの鋭い男だ。見ていると、男はオレに「ここでなにを?」と訊いた。
 「なにをって……んなこと、あんたに関係ないだろう」
 「答えない気ってことですかね」
 「もちろんだ」
 「コレでも?」

 男はレインコートの中に着たジャケットの胸ポケットから、黒い手帳を出してみせた。
 ぎくっ。
 …………どっきんどっきんどっきん。
 オレは動揺を隠して、その手帳をもぎとるようにし、中を確認した。
 ……なんてこった。
 こう書いてあった。


  警視庁捜査三課贋幣詐欺捜査班
  安田功志



<to be continued……>