The Beginning EVE 小次郎編 第八話 199X.4.18 冷えた夜 都内某所の住宅街 空き家の一階 |
そこは、屋敷といってもいいぐらいの大きな家だった。 広い敷地に余裕を持って建てられ、三階部分はおそらく一部屋しかつくらなかったらしく、二階の屋根に当たる部分は広い広いバルコニーになっていた。そこ に、雨風にさらされたデッキチェアと傾いたパラソルがあり、色のはげたそれが、外の電柱のライトに不吉に浮かび上がっている。 荒れ果てた庭に潜入すると、無秩序に地面を這うシダのような植物が、オレの足をゾワゾワと刺激した。背中がぞくりとする。 不吉な家。 オレは音を立てないよう、気配を出さぬように気をつけながらゆっくりと屋敷に近づいていった。 気配を消すために重要なのは、呼吸だ。 動きでなく、呼吸の存在で、人は人の存在を察知する。 ゆっくりと、空気を動かさぬよう、息を吸って、吐くんだ。 …………ダメだ、小次郎。もう一度やってみろ。 二度は言わんぞ。ワシは同じことは二度と教えん。 おやっさんの言葉が蘇る。 ちくしょう、ここ数日ずっと、いないはずのおやっさんの存在をやけに強く感じちまう。なにをするときにも、おやっさんの教えが頭に浮かび、まるでおやっ さんに導かれて動いてるみたいだ。おやっさんがいなくても、オレの力で弥生を助けだしてみせるぜって思ってるくせに、いつもいつも、気づくと桂木源三郎の 力が、オレの側にある。 どっちでもいいさ、弥生が助け出せれば…………。 屋敷の回りを点検するように一周する。中に人の気配は感じられない。だが、空調機がブーンと鳴るかすかな音は、誰かがこの無人のはずの空き家を使っている証拠だ。オレはそうっと壁際に近づいた。 オレの目が大きく見開かれた。 これは…………? 屋敷の裏、隣家との塀際にある小さな窓。おそらく洗面所の窓と思われるそれが数センチ開いていた。開けっ放しにしているのかと一瞬思ったが、顔を近づけてよく観察すると、内側に鍵のある部分が壊され、外から無理に開けた跡があった。 オレは眉間にしわを寄せた。この天城小次郎サマより先に、何者かがこの屋敷に潜入した……? 中原光嗣ではないだろう。野郎はこの屋敷をよく知っている し、野郎がきたときには空き家だった。これは、中に誰かいるのを知っていてこっそり入ったってやり口だしな……。 いったい誰が……? オレは首を何度か振り、とりあえずその誰かさんが開けた窓を使わせてもらって、中に入ることにした。長すぎる足が引っかかって逆さまにぶら下がってしま い、ケツを振りながらなんとか潜入に成功する。辺りをすばやく観察すると、その洗面所には、数日間誰かが使っている気配があった。やはり、中原光嗣はこの 屋敷に潜伏していたのだ。 足音をたてないよう、息をひそめて洗面所を出る。 長い長い廊下があった。左右どちらも、その先端は遠く、薄暗い闇に覆われている。 オレはゆっくりと廊下を進んだ。幸い、ウグイス張りではないらしい。音を立てないよう、膝を曲げたままの体重移動を最小限にする歩き方をして(ちくしょう、これもおやっさん直伝の技術だ)、各部屋を点検する。 二十畳はある広いリビング。壁際にバーカウンター。埃をかぶって白くなっている。大型テレビ、金ラメの入ったゆったりしたソファ。 システムキッチン。冷蔵庫はブーンとかすかな音を立てていて、使っているらしいとわかる。キッチンは……オレは覗き込んで、眉間にしわを寄せた。 キッチンも使われている。シンクはよく磨かれ、鍋も使ったばかりのように水滴がついている。中原光嗣が自炊でもしてるっていうのか? 首を傾げたとき、オレの目に妙なものが映った。 洗い物用のスポンジが縦にしてシンクに立てかけられている。 これは……。 これは、あいつのクセだ。 スポンジがしめったままだと雑菌が繁殖するのなんのと神経質なことを言って、いつもこうやって立てかける。こうすると水分が下に落ちていき、乾くのが早いらしい。オレは興味がないので生返事していたが、そのクセのことだけは記憶に残していた。 弥生のことは、なんでも、よく覚えているんだ。 ………………。 おい、待てよ。 弥生が、ここで食事を作ったり、洗い物をしたりしてるっていうのか? …………なんで? とまどって立ちつくしていると、ふいに、背後で低い声がした。 「腹でも減ったのか、坊主」 オレは瞬間的に振り返り、数歩飛びさすって、腰を落とし両手を躰の前に構えた。これも……あぁ、頭にくるぜ、おやっさん直伝の護身術の一つだ。キッチン の入り口に不吉な影のように中原光嗣が立っていた。黒い服を着て、腕を組み、無表情でこちらを凝視している。 「今日は…………」 中原はオレを見て「迷い犬が多いな」と呟いた。それから、唇の端を、痙攣するように持ち上げた。笑ったのだ。 オレはすり足で中原のほうに近づいた。素手で勝負しようと思ったのだ。構えから拳をリズミカルに繰り出そうとしたとき、二階でかすかな物音がした。 ドスン……と……誰かが、なにかに躰をぶつけたような音。 中原の目に、どこか残酷な喜びが浮かんだのをオレは見逃さなかった。誰か二階にいるのだ。誰かが囚われている。 オレはきびすを返し、反対側からキッチンを飛び出した。廊下を駆け、二階に上がる階段をみつけて駆け上がる。キッチンの真上に当たる場所は、狭い物置の ような小部屋だった。飛び込んで電気をつけると、白い裸電球に、埃をかぶった椅子や古いピアノなどが照らされた。 ピアノに寄りかかるように、男が倒れていた。両手を後ろ手に縛られ、右の太股は刃物で切り裂かれたらしくスーツのズボンが穴を開け、どす黒い静脈血が床まで染めている。 弥生じゃなかった……。 土気色の顔を覗き込むと、男はガクリと下がっていた首をかすかに上げ、虚ろな目でオレを見上げた。見覚えがあった。 「よぅ…………刑事さん」 オレが呟くと、男はフッと笑った。 「贋幣班の安田刑事。ここでなにをしてるんだ?」 「潜入した……失敗だ」 安田刑事は呻いた。 「あの男を甘く見ていた。アイツはプロだ。北で訓練を受けたんだ。もとは、ただの印刷屋の息子だったが……人間は変わる。状況で刻々と姿を変えていく生き物なんだ」 「あんたの人生観はともかく……」 「あぁ、悪いな。無駄話をして。おまえの恋人は上にいるぞ」 「上? 三階か」 「そうだ。助けに行け。オレは失敗した」 安田刑事は沈黙し、耳をすませた。オレもそうした。中原が近づいてくる。ゆっくりと、この部屋に。獲物をいたぶる肉食動物のように、自信に満ちた足取りでこっちに向かってくる。 「天城君、頼みがあるんだが」 「なんだ?」 「電話を一本、かけてくれないか」 オレは片眉を上げ、「電話だと?」と訊いた。この屋敷に電話線があるのか、あるとしたらどこなのか、さっぱりわからない。第一いまそんな余裕はない。 安田刑事は顎で部屋の隅を指した。 「そこに黒い箱がある。移動型携帯電話機だ。肩から下げるようになってる」 たしかにそこに、二十センチ四方くらいの箱があった。 「いまから言う番号にかけて、ここで起こっていることを伝えてくれ。必ずだ。いいな……」 中原が近づいてくる。オレは頷いて携帯電話機を持ち、小部屋を出た。二階の廊下を走り、別の部屋に飛び込む。中原の気配が遠のく。しかし、あっちもプロ だ。オレがやつの気配を察知できるように、向こうも、消しているオレの気配を察知して探し出すに違いない。時間はない。 オレは迷った。 三階に行き、弥生を助けるべきか。 安田刑事のいう電話をまずかけるべきか。 オレは決めた。 桂木探偵事務所手帳を開き、メモを取った番号に電話をかける。 何度かのコール音の後、カチャッと音がして、相手が受話器を取った。 「もしもし? おい、もしもし?」 なかなか応答がない。焦りを覚えて立ちつくしていると、眠そうな、けだるそうな、色っぽい声がした。 『はろはろ〜』 「法条ってのはあんたか?」 『…………そうよ。あなたは誰?』 <to be continued……> |