The Beginning EVE 小次郎編 第九話 199X.4.18 冷えた夜 都内某所の住宅街 空き家の三階 |
刑事に言われたとおり、女に電話をした後、オレは急いで三階に向かった。 三階に上がる階段は、狭かった。まるでかくれんぼをする子供をワクワクさせるために作ったように、薄暗く、横幅も狭く、急な傾斜に心臓が高鳴ってしまう。 弥生……弥生……一歩ずつ上がりながら、オレは心の中で呟いていた。生きていてくれよ、無事でいろよ……。 階段を上り終わる。 十畳ほどの板張りの部屋があった。薄暗くてよくわからない。オレがすり足で入っていくと、ふいに、部屋にいた誰かがカチッと音を立てた。照明をつけたのだ。 オレンジ色のライトにぼんやり照らされて、暗闇になれていたオレの目は激しく瞬いた。なんとか目を慣らして、開く。 目の前に女の白い顔があった。 「…………やっ」 オレは叫ぼうとして、言葉を飲み込んだ。なにかおかしい。 「や……よい」 「やぁ、小次郎」 女は、薄い唇の端を少し持ち上げるようにした。透き通るように青白い頬がかすかに痙攣する。 笑ったのだ。 桂木弥生は見知らぬ女のようだった。こんな妙な笑い方をする女じゃない。いま見た表情はどこかで……そう、中原光嗣がよくやっていたやつだ。まるで笑い 方を知らないように、屈託なく誰かと笑いあったことなど一度もないかのように、顔を引きつらせ、辛そうに笑う。 弥生は白いワンピースを着ていた。オレが見慣れた、カチッとしたスーツや、エルメスやアルマーニの上質なニットに身を包んだ落ち着いた女性とは、まるで 違う。長い髪を後ろで一つに結んで、なんだか幼い感じに見えた。道に迷って途方に暮れている少女のようだ。 その腕にシルバーのバンクルが光っている……と思ったら、それには鎖がついて、部屋の真ん中をどんと貫いている柱につながっていた。部屋の中には木製の 小さなベッド、机、一人掛けのソファがあり、すべて壁際に沿うように置かれている。その部屋の中を弥生は、鎖につながれた動物のようにジャラジャラ音を立 てながら移動し、時折、ゾッとするような冷え切った瞳でこちらをチラリと見る。 「弥生?」 机の前に立って首を垂れている。返事をしない。 「おい、弥生」 オレは駆け寄って、その小さな頭を抱きかかえ、乱暴に揺すった。 「どうしたんだよ、なんなんだ。助けにきたぞ。おい……」 胸に押しつけるように頭を抱きしめると、なにやらかすかに声がした。 オレは弥生の頭を抱えて離し、かがんで覗き込んだ。 「ん?」 「あたしは帰らない」 「帰らない? なんで?」 オレは混乱して、わけがわからなくなった。 お手上げだ。どういうことだ? 囚われている弥生が、なんで帰らないなんていうんだ? なにか言おうとしたとき、階段の下で気配がした。オレはあわてて部屋の電気を消し、息をひそめた。 中原が上がってくる。 オレは階段のほうに近づき、様子を伺った。そうしながらも気になって振り返る。弥生は暗闇の中を徘徊しているらしく、鎖のジャラジャラいう音が時折聞こえてくる。 中原の気配が止まった。二階へと戻っていったらしい。 なぜだ? オレは気になって階段に顔を出し、少しだけ降りた。 耳を澄ます。 女の声がした。 一階からだ。中原も下に降りたらしい。 「…………こうあ……六課…………ほうじょ……捜査官」 よく聞き取れないが、名乗っているらしい。さっき電話した女だ。 あの安田刑事の仲間らしい。オレは電話で簡単に説明し、屋敷の場所を教えて切ったのだが、女は色っぽい声に似合わず頭の回転が速く、必要な質問を二、三 して素早くメモを取り、短く「すぐ行くわ。生きててね」と言った。その「生きててね」がふんわりといい感じの声で、オレはいい女だなと思った。 あの女刑事がきたなら、もう大丈夫だ。警官たちもくるだろう。 だが……オレは眉間にしわを寄せた。一階で、女と中原が親しげに会話を始めた。中身は聞き取れないが、まるで旧知の人間のように話している。 どういうことだ? あの女、何者だ? いやな予感がした。安田刑事は騙されてるんじゃないのか。救援を呼ぶつもりで、犯人の仲間を呼んじまったって可能性も……あるぜ? オレは素早く三階の小部屋に戻った。暗闇の中、ぼうっと浮き上がる白いワンピースを抱えるようにして、囁く。 「弥生、はやく逃げよう。ここはヤバイぜ」 「帰らないよ……」 「んあっ…………だから、なんでだよ。助けにきたんだぜ? わかってる? あいつの側にいたら殺されちまう。八坂玲子みたいに。安田刑事みたいに」 おっと、刑事さんはまだ生きてたな……。 「いいんだ、殺されても……」 弥生の躰から力が抜けた。オレの腕からずるりと抜け落ちて、床に倒れ込む。オレは手を伸ばそうとして、でも呆然として立ちすくみ、足元の白いかたまりを凝視した。 「あの人は、あたしを必要としてくれるからな」 「……あの人?」 「中原は、あたしがつくった料理を食べて、あたしに話をして、いつもあたしと一緒にいてくれる。あたしの側には誰もいなかった。だから帰りたくないんだ」 「なに……なに言ってるんだ、弥生」 「わからないフリはよせ、小次郎。パパは帰ってこない。どこかに行ってしまって、もうずっと帰らない。ママが死んで、あたしとパパの二人だけになったのに、パパは行ってしまった。あたしは一人だ」 「オッ、オレがいるだろう」 「小次郎だって側にはいない。一緒に暮らしているけど、もうずっとつきあっているけど、小次郎はいつも上の空だ。上の空でご飯を食べて、上の空であたし の話を聞いて、上の空でぼんやりとあたしの横にいる。あたしじゃなくたっていいんだ。側にいる女は。ある日別の女に代わっても、小次郎はちっとも変わら ず、同じ生活を続けるさ。まるで、初めからあたしなんかいなかったように、な」 弥生はだらりと躰の力を抜いたまま、ぼんやりと上体を起こした。 天窓から月が見える。いい部屋だ。少々寒いが……。弥生はこの部屋に十日近く幽閉されていた。誘拐犯に情が移り、愛情を感じ始める現象のことをオレだっ て知らないわけじゃない。これまで気を張りつめて、おやっさんのいない桂木探偵事務所を切り盛りしてきた反動が出たのかもしれない。オレが「弥生」と声を かけると、彼女は幼児返りしたかのように、両手を曲げてイヤイヤと首を振った。 「帰るぞ」 「帰らない」 「いい加減にしろ!」 怒鳴ると、ビクッとしてオレを見上げた。 闇の中、その瞳にかすかに希望が宿ったように見えた。弥生はオレに怒ってほしいんじゃないかと思った。でもそんな計算は働かず、オレはただ思いつくまま、やみくもに彼女を怒鳴りつけた。 「くだらないことを言ってないで、オレと帰るんだ。ここは危ない。あの男はすでに女を一人殺してる。二階に死にかけた刑事もいる。オレはおまえを助ける ためにここを嗅ぎつけて、やってきたんだ。おやっさんがいない? そんなの、オレがおまえの側にいるから、安心してでかけちまったに決まってる。おやっさ んなりに、娘から子離れしようとしてるんだ」 「そう……なのか?」 どうだろう、と思った。おやっさんのことはわからないし、第一、オレがこうだと決めるようなことじゃない。そんな殊勝な男じゃない気もする。だがオレは「そうだ」と大きく頷いた。もう乗りかかった船だ。 弥生は目を見開いて「…………そうなのか」と呟いた。 「オレとの生活にどんな気持ちを持ってようと、とにかく帰るんだ。二人のことはそれから決めればいい。オレのいやなところをあげつらって、大喧嘩になるのもいいさ。一人で煮詰まって、こんなところに籠もってていいわけはない」 オレはしゃがんで、弥生の肩に手を回した。 「帰ろう。オレと帰って、二人でおやっさんを待とう」 「ほんとに?」 弥生は震える声で言った。 「一緒にパパを待ってくれる?」 「あぁ、待つよ」 弥生は瞳を見開いて、こぼれるように微笑した。 それから、左手首のバンクルに右手をやって、カチャッと外した。オレは両目を飛び出さんばかりにしてのけぞった。 「おまっ、おまっ、おまえ、それっ……外せるんかいッ!?」 「あぁ、だって……」 弥生はケロリとして言った。 「トイレに行くとき、困るだろう。料理もしていたし」 中原光嗣には、弥生が逃げないことが途中でわかったに違いない。あの男はまったく、人の心を見抜いてコントロールする天才だからな。にしても、まったく……。 オレは天井を仰ぎ見た。天窓から覗く満月。それに向かって、無言で吠える。 弥生ッ……。 ほんとに怖いのは、こういう女だぜ。まったく、そうなんだよ! 世の中のガキども全員に、危険マーク付の書類にして送ってやりたいぜ! 下の階では、女刑事の大捕物が始まっていた。 拳銃が火を噴き、ヒールの音が響き渡り、中原光嗣と女刑事の格闘が続いている。 二階の小部屋で安田刑事を見ると、半身起こした状態で「やぁ、天城君」と片手を上げてみせた。 口ひげが汗で濡れている。「大丈夫か」と訊くと、「あぁ、彼女が来たようだから、もう安心だ」と頷いた。 「よく知らない人なんだが、評判は上々でね。期待もあって推薦した。もうすぐ警官隊も来るだろう。彼女が手配を忘れていなければね」 「そうか……」 「君は逃げたほうがいい」 安田刑事は顎で行けよ、とジェスチャーした。 「偽札換金犯として逮捕されたら、君の将来も台無しだ」 「別にオレの将来なんて……」 「そちらの女性はそうは思わないよ。自分のためでなく、人にために、逃げるんだ。もうそろそろ、そういうことができる歳になってもいいんじゃないのか」 オレはうつむいた。 ずっと、自分のために生きてきた。自分の欲求のため走り回ったり、自分の焦燥感を持て余して無理をしたり。そのたび心配して青い顔をする弥生。少しずつ あきらめたような顔でオレを見るようになった弥生。それでもオレに惚れて、ついてくることだけはやめない弥生。 今回オレは初めて、弥生のために走った。 弥生を救いたくて走った。 オレは歳を取ったのかな。いや……大人になったんだって思うことにしよう。 頷いて、弥生を抱えたまま二階の小部屋を出た。「いつか礼をするぜ」というと、安田刑事は背後で「結婚式には呼んでくれ」と言い、クツクツ笑った。 「てんとう虫のサンバを歌ってやる」 「それだけはかんべんしてくれ……じゃあな」 階段を降り、銃創が散らばる廊下を走り抜けた。物騒な女だぜ……オレに当てるなよ。 玄関を出ようとして、警官隊が集まり、突入しようとしていることに気づいた。あわてて裏口に回り、そうっと脱出する。 不審に思われないよう、弥生をそっと降ろした。彼女が裸足なのに気づき、頭をかいて、ちょうど角を曲がってきたタクシー(割増表示が出ていた。もうそんな時間……夜中なんだな)を止める。 エクレール・マンションの住所を告げて、後部座席のシートにほうっと躰を沈める。弥生が、結んでいた髪をほどいた。サラサラのロングヘアがオレの肩にかかる。 弥生はこっちを見た。瞳が潤んでいる。 「小次郎」 「なんだ?」 「あたしのことを愛してる?」 運転手の背中がブルッと震えた。セクシーな弥生の声にゾクッとしたのか、オレの陥った状況に笑ったのか。 いつもみたいにふざけて、突き放したいところだった。でも、今晩だけはやめたほうがいい気がした。また幼児返りされて泣かれたらコトだし……。 ときにはクサい男になってみるか。 「愛してる。当たり前だ」 弥生は一瞬置いて、幸福そうに笑った。 この瞬間の喜びがあれば、あと十年は、いじめ抜いたってオレについてきそうな顔だった。 オレが続けて「おまえな、この天城小次郎サマを信じないなんて、どうかしてるぞ。だいたいだな……」と言い出すと、弥生の微笑はますます深くなった。 そしてついに、顔をのけぞらせて、我慢できないというように楽しげに笑い出した。 <to be continued……> |