The Beginning EVE
小次郎編 第十話

199X.8.3 日差しのきつい昼
天城探偵事務所の前の日陰


 「よぅ」
 事務所を一歩出たとき、低い男の声がした。
 ポケットに手を突っ込んだまま顔を上げると、口ひげを綺麗に整えた中年の男が立っていた。ワイシャツを肘までまくり上げ、白いハンカチで額の汗を拭いている。
 「暑いな」
 「……あぁ」
 オレは頷いた。男はオレを見てニヤリとした。
 「久しぶりだな、天城君」
 「そうだな…………三年ぶりってとこか」
 安田功志刑事は、以前より少し太ったようだった。そのぶん柔和な顔になり、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 オレとは正反対の変化だ。オレは以前より痩せて顎が尖り、肌も荒れて、自分でも荒んでいるのがわかる。ため息をつきながら「入るか?」と訊くと、安田刑事は頷いた。
 「忙しいようなら、またにするが」
 「……忙しいわけないさ。 桂木探偵事務所から独立して、 ここ数ヶ月。ろくに依頼人なんてきやしないんだ。貧乏ヒマなしってのは嘘だな。金がなくて、ヒマはあって……退屈が友達ってところだよ」
 「優雅だね。贋幣班は相変わらずだよ。あの後、世界中を騒がせたスーパーK事件に追われて、天皇関係の記念金貨でも緊張して」
 そう言いながら、安田刑事はブラブラと事務所に戻るオレについてきた。
 「スーパーKも、北の印刷工場で作られているらしいって話があってな。いま捜査本部が置かれて大わらわってところだ。三年経って、寝かせていた事件がまた動き出したってことだ」
 薄暗い、だだっ広い天城探偵事務所の中に入ると、安田刑事は辺りを見回して、吐息を一つついた。
 「広いな。それに……暑い」
 と言った。  「倉庫を改造しただけだからな。夏暑く、冬寒い」
 「どうしてこんな場所を?」
 「環境を変えたかった」
 オレの脳裏に、オフィス街の清潔なビルに間借りしている、近代的でカチッとした桂木探偵事務所の様子が思い浮かんだ。思い出の中には、パンツスーツに身を包んだ弥生が忙しく立ち働いていて、時折オレの視線を感じて振り向き、幸福そうに笑う。
 それは、たまらない光景だった。
 後悔や、失ったものへの痛みや、それをうち消そうと強がる気持ちがないまぜになる。オレは頭を振って、気分を変えようとした。冷蔵庫からボルヴィックのボトルを出し、安田刑事に投げる。
 「茶を出す用意もないんでな。それ飲んで涼んでくれ」
 と言うと、安田刑事は笑った。  「男所帯の悲しさだな」
 「ほっとけ」
 「彼女とはもう会わないのか」
 「………………あぁ。いや……わからない」
 これからオレと桂木弥生がどうなるのか、それはオレにもわからなかった。弥生にもわからないだろう。この三年間で、オレたちの状況は変わった。
 あまりにも変わった。元には戻れないほどに。
 あれからしばらくして、おやっさん……桂木源三郎は帰国した。弥生はオレの部屋を出て一人暮らしを始め、その後、今度はオレのほうが彼女の部屋に転がり 込んだ。切れない仲ってやつだ。オレたちはまあまあうまくいっていた。事務所も順調だったし、弥生とオレも、仕事の後銀座のマリオンの前で待ち合わせて、 仲良く映画を観たりなんてやっていた。
 だが、数ヶ月前一つの事件が起こった。オレはその事件で……桂木源三郎を告発することになった。訳があってのことだったが、弥生にそれは告げられず……オレは、弥生に恨まれ、彼女の元を去った。
 思い出の中の弥生は、いつも笑っている。悲しげにオレを見たり、涙をこらえたりなんて顔は、オレはなぜか思い出さない。弥生は溢れんばかりの愛情と信頼をもって、オレに微笑みかけ、ハスキーで女っぽい、あの独特の声で、小次郎、とオレの名前を呼ぶ。
 なけなしの金で湾岸地域の古い倉庫を借り、この天城探偵事務所を開いてからの数ヶ月、オレは、時折くる依頼をこなし、後は音楽を聴いたり、ゲームに興じたり……いつ役に立つのかわからない探偵術の訓練を繰り返したりしながら、時間を浪費している。
 「もったいないな。君の才能を埋もれさせておくなんて」
 「そりゃどうも」
 オレは自分の分のボルヴィックを出して、ゴクゴクと飲んだ。顎に向かって水が垂れていき、汗と一緒に首筋を通ってシャツを濡らしていく。
 「ところで、あの事件のときには、刑事さんに世話になったな」
 「世話なんてしてないさ。ただ、あの屋敷に天城君がいたことと、囚われていた女性がいたこと、天城君が共犯だったことを伏せておいただけだ。あのとき駆けつけたエージェントにも、極秘で口止めしておいた」
 「じゃ、その人にも礼を言っといてくれ」
 「直接会ったことはないんだ。評判を聞いて、おもしろいヤツだと思って、あの事件に推薦した。後で口止めするときも電話だった。一度、あの事件での負傷 で入院しているときに見舞いに来てくれたらしいがね。検査でベッドにいないときで、病室に戻ったら花がおいてあった」
 「ふぅ〜ん……」
 オレは頷いた。
 安田刑事は立ち上がった。
 「ちょっと顔を見にきただけだ。仕事中だし、帰るよ」
 「そうか」
 「流行るといいな、ここ」
 「そうだな」
 オレは前髪をかきあげた。
 「でも……」
 「でも?」
 「もうしばらくは、退屈と友達ってのも、悪くないさ」


 その夜、夢を見た。あの刑事が余計なことをいうから……夢に弥生が出てきてしまった。
 夢の中でオレは、水と食糧を買い足そうと事務所を出て歩き出していた。どうも夕方らしかった。湾岸地域には店は少ないが、高級食料品店が最近オープンし、そこでいろいろなものを買い込む習慣になっている。
 店に入ろうとすると、入れ違いに出てきた女が「……あっ」と叫んだ。
 顔を上げると、そこに、桂木弥生が立っていた。
 「…………弥生」
 弥生は金縛りにあったようにオレをみつめ、それから首を振った。
 「小次郎…………やだな、こんなところで会うなんて」
 とまどったように何度も首を振る。
 まどろみながら、オレのほうもとまどっていた。こんなところでって……ここはデートするカップルや観光客以外、ほとんど誰もこない場所だ。弥生はなんだってここにいるんだ?  彼女が下げている買い物袋に視線を落とした。セロリと、バジルと、プリーツレタスと……弥生が得意な香草サラダの材料が入っている。それに、ちょっと張り込んでイタリア製のパスタの袋。ワインのハーフボトル。
 オレの視線を追って、それから弥生はうっすらと頬を染めた。
 「オレのところに?」
 「あぁ……なんか急に、そうしたくなって。…………でも」
 弥生はうつむいた。
 「やっぱりやめるよ。顔を見たら、まだ…………まだ終わってないんだってわかった。あたし、まだ、冷静でいられない」
 「………………そっか」
 オレに言えることはなかった。弥生の心は、オレにはどうすることもできない。
 いつか傷が癒えるのか。オレに向き合えるのか。それとも、一生許せないままで歳を取っていくのか。
 それはオレにどうかできる問題じゃない。
 二人でとぼとぼと歩き出した。海の見える高台に上ると、蒸し暑い真夏の風がびゅうっと二人の躰にふきつけてきた。
 弥生は「暑いな」と言って、サラサラのロングヘアをかきあげた。
 思い出の中の彼女と違って、笑わない。そのことにオレはなぜか傷ついていた。
 風は相変わらず熱い。熱風だ。冷え切った二人のあいだの空気をあざ笑うような熱風。
 「あたし、わからないんだ」
 弥生はボソッと言った。
 「自分が、なにをなくしたのか。小次郎……おまえをなくしたのも確かだ。それに、パパをなくした。二人があたしの人生を支える、二本の大きな柱だった。それを両方失ってしまった。それでもあたしの人生は続いていく。
 あたしはあの桂木探偵事務所を守らなきゃいけない。いまや所長だからな。昔は、パパが帰ってくるまで守らなきゃと思って頑張った。それに、ここを維持していることで、小次郎に生きる場所を持ってもらえると思ってた。
 いまは、二人ともいない。なんのために所長として頑張るのか、よくわからないけれど……それでも毎日働いてる。小次郎、あたしほんとに……」
 弥生は唐突に言った。
 「あんたを愛してた」
 「……知ってるよ」
 「そっか。……そうだな」
 弥生はうつむいた。
 「ばかだな。そんなこと言いにきたんじゃないのに」
 オレたちは二人とも、お互いに未練たらたらなんだな、とわかった。オレだって弥生が愛しい。でも、オレから手を差しのべることはできない。
 弥生の中で、なにかが消化されて、また、オレのことを受け入れられるようになったら……もしかしたら、再び恋人どうしに戻れるのかもしれない。
 夢の中でさえ……現実は残酷だ。どうしようもないこともあるんだ。
 弥生はオレを見上げ、泣きそうな顔で「また、会いにくるかもしれない」と言った。
 「こないかもしれないけど」
 「あぁ。わかった」
 弥生はゆっくりと歩き出した。駅のほうへ。
 オレはその場に立ちつくし、彼女の後ろ姿を見送った。弥生は一度だけ振り返り、なにか言いたそうな顔をした。
 オレもなにかを言いたかった。でも、なにを?
 弥生の姿が見えなくなる。オレはふいに取り返しのつかないことをした気がして、突然走り出した。駅の階段を駆け下り、白いタイルの上を走る。
 改札の前に出る。弥生の細い後ろ姿が、滑り込んできた電車の中に消えていく。
 「弥生ーーーーーーーーーッ!」
 電車のドアが、ぷしゅうっと音を立てて閉まる。
 弥生はオレに気づかない。窓に背を預け、うつむいている。電車は発車し、弥生の背中も轟音とともに急激に遠ざかっていく。
 オレはあきらめて、ゆっくりときびすを返した。ブラブラと歩き、駅を出る。
 重い足取りで階段を上がる。一歩、一歩。ジャケットのポケットに両手を突っ込む。
 外に出ると、強い西日がオレの顔を照らした。眩しくて目を細める。
 でも、な。
 弥生とオレの仲は、そんなに簡単に切れるもんじゃない。希望的観測? 相変わらず自信家? いや、これに限っては本当のことだ。
 オレはその夢から冷めかけていた。暗い事務所のソファで、ゆっくりと寝返りをうち、目を固くつぶったまま、ぼそりと声に出して呟いてみた。
 いつか…………。


 いつか弥生に、今日言えなかった台詞を、言える日がくるさ。きっと。

<Fin>