The Beginning EVE
まりな編 第二話

199X.4.3 ひんやりした午後
霞ヶ関 警視庁公安部分室
 「まりなくん、ね……」
 霞ヶ関の官庁街のかなり外れにポツンと立つ、年期の入った煉瓦のビル。
 警視庁公安部公安第六課は、分室として地方課の警察署に間借りさせてもらっている一室だ。この課の職員には、二通りある。デスクを与えられて毎朝ここに出勤してくる者と、特殊任務を帯びて活動し、ここには用があるときしか立ち寄らない者。
 あたしはもちろん後者だ。そしてそのことが誇りでもあるってわけ。任務に就き始めた頃はしょっちゅう、そしていまでも月に一度は、こんなセリフを口にし てしまうくらい……曰く「ぬるま湯につかったお役所仕事と一緒にしないで!」「公務員をなめんじゃないわよ!」いやな女っぽいけど、いいわけさせてもらえ るなら、こんなことを叫んじゃうのは、任務がスムーズにいかなくて悩んじゃってるときだけだ。
 とにかく、だから、この分室にも、あたしは月に何度か顔を出す程度。甲野本部長の上官用デスクの真ん前にあるあたしのデスクも、よく見たらうっすら埃が積もってるようだ。
 自分のデスクにお尻をのっけて座り、今年の新色、スモーキーブルーのペディキュアを足のツメに塗っているあたしに、大きなため息が聞こえてきた。
 「なに、本部長?」
 また、ため息。
 あたしは黙ってペディキュアを塗り続けた。体をかがめ、胎児のように丸くなってやる“ペディキュア塗り”の儀式は、女性の落ちこんだ心を癒す効果があ る、と大学の心理学コースで学んだことがある。確かに、こうやって丸くなって座り、ただきれいにツメに色を塗ることだけに集中していると、なんだか落ち着 く。
 つまり、あたしはいま、落ちこんでいるってわけだ。柄にもなく。
 あたしは顔を上げて、わざと明るい声を出した。
 「これ、今年の春の新色なの。どーお?」
 「いいんじゃないの。それよりね……」
 甲野本部長の言いたいことはわかってる。あたしの仕事ぶりについて。
 わかってて言わせないのはあたしのほう。
 あたしは走り始めると止まることができない。いつもそうだ。ここまでであたしのやることは終わり、後は誰かにバトンタッチして……ってことができない。 いつも任務で出会った人に関わりすぎてしまったり、納得いかないと個人的に捜査を続けてしまったりする。
 任務達成率は公安でもトップだけれど、最近あたしの心は、そんな数字上の成績なんかでは晴れないのだ。もしかしたら、仕事に就いてしばらく経った頃、誰でも考えてしまうおきまりの悩みなのかもしれないけれど……。
 この仕事、本当にあたしに向いてるの? 成績はいいけれど苦情も多いし、なにより自分自身がすっきりしない。大きな組織の中で流れ作業として捜査するのでなく、一人で最初から最後まで責任を持てたら……。
 ほんの少し違う形になったら、この仕事をもっと愛せるんじゃないかしら……いまの、すっきりしない気分のままじゃなくて……。
 そんなふうに悩みながらも、この公安で仕事を続けているのは、いま目の前にいる上司のおかげなのだ。煙たがられることが多いこのあたしを、甲野本部長だ けは強くかってくれている。「達成率がピカイチなんだから、いいと思いますけどね」いつもの間延びした調子で、公安部のお偉いさんに言ってくれたことを、 あたしは知っている。「彼女が先走ったときは、ぼくが全力で止めますよ。外部からの苦情もぼくを通してくれればいい。命令系統はボク一本にしていただい て。彼女は有効に使える人材ですから、ははは……」それまでは、ヘラヘラしたいい加減な上司だと思っていたけれど、あたしが甲野本部長を見る目は変わっ た。それ以来ずっと、彼には甘えっぱなしだ。
 「だってさ、本部長……」
 あたしは、塗ったペディキュアを乾かそうと、両手でパタパタ、足に風を送りながら言った。
 「日本のヤクザが、太平洋公海での違反操業問題で日本二百海里内から撤退が決まったサケマス漁船と、中国蛇頭のあいだを橋渡しして、廃船の決まったサケマス漁船を日本への密航に使うって計画は、半年かけてあたしが捜査してたわけよ」
 「はいはい、知ってますよ」
 「最初はなかなか糸口が掴めなくてさ、先月末にようやく、四月のアタマに船がくるってわかって。それなのに、いざとなったら公安は閉め出されて、海上保 安庁が大活躍して摘発終了。それで仕方なく納得したけど、心配で一応ヘリを出したら、あいつらったら案の定くるのが遅くて。あたしがヘリから飛び降りてエ ンジン止めなかったら、船は陸地についてたわよ。そしたら密入国者が鹿児島中に散って、捜すの大変だったはずだわ。それに……」
 早口で言いながら、本部長のほうを見る。彼はデスクに頬杖をついてニヤニヤ笑っていた。
 その顔を見たら、あたしもプッとふきだしてしまった。
 「オーケイ、わかった。あたしがでしゃばりすぎたわ。ほっといて、海上保安庁の失態を見てればよかった。半年の努力が水の泡になるところを、ポップコーンでも囓りながら見物するべきだったわ」
 「そうなったらなったで、なんのかんのと、公安のせいにするヤツらだよ」
 「…………そうね」
「気にしなくていい、まりな君。君は優秀だ」
 ふいに目尻にうるっときたので、あたしはあわててペディキュアの出来を点検するふりしてかがみこんだ。
 本部長はいいヤツだ。だからちょっと苦手。優しい年上の男の人は、あたしを弱くしてしまう。
 あたしは肩をすくめて「サンキュ、本部長」と言った。
 「ま、しばらく休みなさいよ、まりな君。今回の摘発まで半年間、ほぼ休みなんて取れなかったんでしょ。だいぶ顔が老けてきてるよ」
 「悪かったわね。言われなくたって十分休暇を取るわ」
 「 フィジー だっけ」
 「そ。なんと一ヶ月の海外休暇。のんびり、南の空を見て、海で泳いで。おいしいものを食べて……」
 「素敵なおじさまをみつけて……」
 「その通り」
 あたしは立ち上がった。ハイヒールをはき、腰に手を当てて、決めのポーズをする。
 「楽しんでくるわ」
 「あっ、と……まりな君」
 所長室を出ようとすると、本部長が呼び止めた。
 「なに?」
 「君が言ってた、第三十八長門丸に乗船していた怪しい男ね。プロの訓練を受けた形跡があるっていう……。海上保安庁に問い合わせたけれど、該当する難民はいないってことだった」
 「…………そ」
 あたしはため息をついた。そうだと思った。摘発の途中で何人か取りこぼしたんだわ、きっと……。
 もうやめ、やめ。仕事のことは頭から閉め出そう。
 「それからね」
 「あん?」
 「例のモノ、おいてってくれる?」
 「あっ……そか」
 あたしは肩からホルスターをガバッと取り外した。SIG SAUEL P228を本部長に向かって放り投げる。本部長はちょっとあわてて「わわっ」と言いながら受け取った。
 「休暇には必要ないものね」
 「そういうこと。じゃ、二週間後に」
 あたしはふざけて、外人風にバチッとウインクした。本部長もふざけて、それをよけてみせる。
 あたしは足取りも軽く、分室を出た。
 ビルの一階受付の前を通ると、制服姿の婦警が立ち上がり、敬礼した。
 「おっす。ごくろうさま」
 軽く敬礼を返す。
 入り口のエントランスに、ガラスドア越しに西日が射して暗いオレンジ色に床が染まっていた。あたしはビルを出ながら、腕時計を覗きこんで時間を確かめた。
 まだ夕方だった。
 時間はあるわ……。
 冴えない気分を変えて、しばらく会っていない女友達に電話することにした。もしかしたら、今夜辺りあいつの顔が見れるかも……。


 「じゃ、明日からまりなは、フィジーの空の下ってわけか」
 その夜。薄暗いバーのカウンター。
 あたしの隣で、桂木弥生が呟いた。ネコが伸びをするように細い上半身をくいっとのけぞらせてみせて「いいなぁ。あたしもどっか行きたいよ」と言う。
 「だってさ、弥生。あたしはここ半年、不眠不休で働いてたのよ」
 「こっちも同じさ。調査依頼は引きも切らないし、相変わらずパパは行方不明だし、そのうえ所長代理とは名ばかりの、世話の焼ける男も抱えてるしな」
 「その世話の焼ける男に惚れこんじゃったのはあんたでしょ」
 弥生は一瞬、虚をつかれたように息を止め、それからうっすらと頬を染めた。あまりにかわいい反応にあたしがあきれていると、くつくつと笑い出し、「まいったなぁ」と呟く。
 暖色の間接照明に顔半分照らされて、どこか哀感のある美貌が今夜はひときわ冴えて見える。
 彼女、桂木弥生は、あたしの学生時代からの親友だ。競いあい、励ましあって同じ道を目指してきたのだが、彼女のほうは父親が始めた探偵事務所を手伝うこ とになり、そのときから二人の道は別々になった。ちがう職業に就いてからのほうが、学生時代よりむしろあたしたちは緊密になった気がする。なんでかしら ね……? お互い多忙でめったに会えないわりに、仕事できつい思いをしているときなんかに、あたしはふっと弥生のことを思い出すのだ。(弥生も大変だろう な。でもきっと彼女は頑張ってる)そう思うと不思議に気持ちが楽になり、もとの元気な自分を、一瞬でも取り戻すことができる。
 大切な親友。だからあたしは、長く日本を離れるときと、逆に、ようやく日本に帰国したとき。この二つの場合は、なにはなくとも彼女に会うことに決めている。向こうも無理して時間をやりくりして、こうやってあたしの顔を見に来てくれるのだ。
 約半年ぶりのあたしたち。あたしのニュースはようやく取れた休暇とフィジー行きの計画(悩みや仕事のグチは言わないことにした。せっかくだから楽しい話がしたい)。弥生のニュースは、恋人と一緒に暮らし始めたこと、だ。
 なんでも、彼女の父親が一人前の探偵に育てようとしていた男に惚れて、いまでは一緒に暮らしているらしい。どんな男なのよ、と訊くと弥生はしばらく考えて「前髪が長い」と一言、言った。
 そんな説明じゃわからない。でも、恋をしているときってのは、客観的にはなかなか見れないから、どんな男って訊かれてもまともに答えられないものなんだろう。あたしは肩をすくめて「なるほど」とだけ答えた。
 弥生が幸せそうなら、それでいいものね。
 その弥生は、でも、恋をしているうれしさと、わけのわからない不安の両方が押し寄せているようで、さっきからときどき妙なことを口走っていた。
 「なぁ、まりな」
 「あん?」
 「惚れている相手のことを、信じられるか?」
 「………………あん?」
 あたしは若いバーテンにグラスを指し示して、お代わりを注文した。眉間にしわを寄せて考え込んで「…………信用できない男ってわけ?」と訊く。
 「そういうわけじゃないよ。ただ、いろいろ考えちゃってな。いや、相手の全部を知りたいってわけじゃないよ。知らないほうがいいこともあるし」
 「ふんふん」
 「タマネギの皮をな……」
 「……は。タマネギ?」
 こいつ、もう酔ってるんだろうか。そういやもともと、あまりアルコールに強いタイプじゃなかった気がする。働くようになってからは少々ならイケるみたいだけど。
 「タマネギの皮を全部向こうとしてさ、最後までむくと、なんにもなくなっちゃうだろう。だから全部むいちゃいけないんだよな。……な、そうだろ」
 あたしのお酒をもってきた若いバーテンに向かって、とつぜん詰問する。バーテンはへどもどして「あっ、はぁ」と返事をした。
 「だろ?」
 「そーですね。茶色いところだけむいて、後は残したほうがいいですよね」
 「わかってるじゃないか。若いのにえらいな」
 「あぁ……ありがとうございます」
 バーテンがこそっと逃げていく。あたしは弥生をつついて「酔ってるでしょ、弥生」と言った。
 「そーかもな。でもあたしが言いたいのは、だから、訊きたいこともあんまり全部訊いちゃダメってことだ。多少気になってもな。タマネギの白いところかもしれないからな」
 「なんだかわかんないけどさ、気になるなら訊けば? その男に」
 「白いところなのにか?」
 「……タマネギから離れてよ、弥生」
 弥生は急に黙りこみ、それから「まりなに話すと楽になるな」とボソリと言った。  「自分で決めるよ。時間ならまだあるし」
 「そうよ。なにを気にしてるのか知らないけど、同棲し始めたばっかりじゃない」
 弥生は大きな瞳を細めて、微笑した。幸福そうな、でも不安そうな、その両方に激しく振れるような表情。恋をしている喜びと不安が入り交じったその顔に、あたしはたまらなくなった。
 あたしだって恋がしたい……この半年、サケマス漁船と密入国者のデータと格闘するだけで、艶っぽい話の一つもありゃしない。先月も同僚の男の子に「最近 の法条、サケマス関係の話題ばっかりになってるよ。なんか心なし、魚くさくなってきた気が……」とからかわれちゃったばかりだ。
 そのうえ最後は、余計なことをするなと海上保安庁から厳重注意。たまったもんじゃないわ。
 もう我慢できない。
 「決めたわ、弥生」
 あたしがキッと横を見ると、弥生はとろんとした酔っぱらった瞳で、なによ、というように眉を上げてみせた。
 「あたしも、恋をする!」
 「フィジーで?」
 「そーよ!」
 弥生がパチパチパチ……と拍手する。
 「その意気だ、まりな。フィジーの海でひと暴れしてこいよ! 武勇伝、楽しみに……して……る……ぞ……」
 拳を振り上げていたあたしは、ん? と隣を見た。弥生は笑いながら潰れてしまったらしい。ほんのりアルコールに染まった頬に微笑を浮かべ、くーくー眠っている。
 あたしは、近づいてきたバーテンに肩をすくめてみせて、お会計をお願いした。


 大通りで拾ったタクシーに弥生を乗せて、テールランプの海を遠ざかっていくそのタクシーを見送る。それから時計を見ると、もう十二時近かった。あたしも、流れるように近づいてきたタクシーを拾い、自宅の住所を告げた。
 運転手は、まだ二十代らしい若い男だった。なにかを気にするように、鏡越しにチラチラこちらを見ている。
 車が繁華街の雑踏を抜けると、鏡を覗きこみながら「お客さん」と言った。
 「なーに?」
 「その色、流行ってるんですかね。ちょっとくすんだピンク。今朝から、女のお客さん乗せるたび、やたらその色のスカーフやらブラウスが目につくんですよ」
 あたしは、自分の上半身にフィットするスモーキーピンクのシャツを見下ろした。
 「そーよ、これは今年の流行色。パステルカラーをちょっとくすませた微妙な色が人気あるの。ほら、これ見て……」
 あたしはヒールを脱いで、塗ったばかりのブルーのペディキュアを運転手の鼻先に伸ばしてみせた。
 「スモーキーブルー。この色もよくみかけるでしょ」
 「ええ。……足、きれいですね」
 「知ってるわ。でも、ありがと」
 足を降ろして、ヒールを履き直す。
 「もうすぐ彼女の誕生日なんですけど……」
 運転手は、ギアを入れ替えながら言った。
 「ジュエリーとか、そういうのも、その流行色なら喜んでもらえますかね」
 それが訊きたかったらしい。あたしは、かわいいこと訊くわねぇと内心笑いながら「そう思うわ。でも、彼女にどんなのがほしいか訊いたほうがいいかもよ。女の子のほしいものは、意外と、一人一人違ったりするから」と答えた。
 タクシーが自宅の近くに着いた。コンビニエンスストアに寄りたかったので、あたしは手前で止めてもらい、タクシーを降りた。
 コンビニエンスストアで雑誌と缶コーヒーを買う。ブラブラと歩き、この時間になるとさすがに人気がないなとため息をついた。あたしのヒールがたてる足音だけが、コツコツコツ……と夜の少し冷えた空気に響きわたる。
 角を曲がると、あたしの住むマンションだ。明日からの旅行のことを考えると心が浮き浮きとしてきて、あたしは知らず早足になった。
 「………………きゃーっ!」
 ふいに……。
 女の悲鳴が響いた。
 あたしはとっさにコンビニエンスストアの袋を路上に捨て、走り出した。声のしたほう……あたしのマンション前に向かって、角を曲がる。
 そんな、痴漢とか出るような場所じゃないんだけど……でも、いまの悲鳴は……?  角を曲がったあたしは、一瞬、めまいに襲われた。
 視界のど真ん中に、スモーキーピンク。夜の闇にぼんやりと浮き上がるように倒れている。
 女の人だ……あたしと同じ色の服を着た……!
 あたしは息を飲んだ。倒れた女性の横に、闇に紛れるように黒い影が立っているのに気づく。
 全身から不吉な気配が漂っていた。顔も何も見えないのに、あたしはなぜか、その影が目に入った途端ぞっとして、思わず後ずさった。とっさに肩に手をやり、頼みのSIG SAUEL P228を装着していないことを思い出す。
 なんでこんなに怖いの?
 なにを動揺してるのよ?
 それより、あの倒れてる人を……。
 ふいに冷や汗が額から流れ落ち、目に沁みる。


 そして影は頭をゆっくりと上げ……。
 あたしをみつけた!


<to be continued……>