The Beginning EVE まりな編 第三話 199X.4.11 西日の強い夕方 東京都内 国立K病院病室 |
「機嫌はどうだ、まりな?」 うす寒く感じるほど白い病室のカーテンが、開け放した窓からの風でこころもとなく揺れているのをぼんやり見ていると、ふいにドアのほうから声がした。 ハスキーで、女にしては低く、でもどこか色っぽい独特の声。あたしは物憂げに枕から頭を起こし「……うん?」と、負けずに低い声を出した。 桂木弥生が腕組みをして立っていた。上質な素材でつくられたテーラードスーツに、つま先の細いショートブーツ。サラサラのロングヘアが窓からの風に揺れて、また細い肩の上にふんわりと戻った。 あたしの仏頂面を見て、プププッと吹きだす。 「なによぅ、失礼ね」 「機嫌悪いか。……そりゃそうだな」 コツコツとブーツを響かせて入ってくる。「寒くないか、まりな?」と言いながら、意外な怪力でたてつけの悪い病室の窓を思い切り閉めた。 揺れていたカーテンがおとなしくなる。 「で……どういうことなんだ?」 「どうもこうもないっての。訊きたい、弥生?」 「おもしろい話ならな」 あたしは大きくため息をつき、チョイチョイと手招きで弥生を呼んだ。弥生は一瞬おいて、共犯者のような悪戯っぽい笑顔を浮かべ、ベッドサイドの丸イスに細い体を預けた。 「もちろん……」 あたしは言った。 「おもしろい話よ、弥生……。あたし以外の人にとっては、ね」 約一週間前。四月三日の深夜。この弥生と飲んだ後、あたしは上機嫌でタクシーに乗り、帰宅した。自宅のあるサン・マンションの手前でタクシーを降り、コンビニエンスストアで簡単に買い物して……マンション前に出る角を曲がったとき、事は起こった。 若い女性の悲鳴に、いつもの癖でワッと走り出し、路上に倒れている女性をみつけた。側には黒い服をきた男が立って、ビクッビクッと痙攣している女性を無表情に見下ろしていた。 痙攣のたびに、胸元の赤い血溜まりから、どくどくと血が流れ出している。スモーキーピンクのブラウスが鮮やかな赤に染まっていき、大きな模様のように見える。 その模様の真ん中に、細いナイフが突き刺さっていた。正確に心臓の真上から刺されていて、無駄のないやり方だと見て取れた。あたしは肩のホルスターから拳銃を抜き出そうとして、夕方甲野本部長に渡してしまったことに気づいた。 男はゆっくりと顔を上げて、こちらを見た。 野生動物のような無駄のないしなやかな動き。 あたしは、自分に勝ち目がないことを悟った。ただそれだけの動きで。瞬間的に。 男は流れるように柔らかく移動し、次の瞬間にはあたしの真横まで迫ってきていた。鞭のようにしなる手足が容赦なくあたしの脇腹に、腕にダメージを与える。立ち位置を変えて防ぐどころか、腕で防御の姿勢をとる余裕もなかった。 殺される……! せめて男の顔を見ようとした。「誰よ、誰なの……?」思わず呻いたとき、あたしが曲がってきた角の向こうから、ふいににぎやかな話し声が響いてきた。 「ショックだな〜、笠智衆死んじまったの」 男の動きが止まった。精密機械がふいに動きを止めたように。 「おまえ先月からずっと言ってない、それ?」 別の声が聞こえた。合わせて、数人の押し殺したような笑い声。つつきあい、目配せするような、複数の人間の気配。 あたしは思わず、こないで……と口の中で唱えた。若い男の子たちの声に胸が縮こまる。巻き込みたくなかった。一般人を、こんなことに! お願い、引き返して。別の道に曲がって。コンビニで買い忘れた氷や、人数分の紙コップのことでも思い出してよ! 声はどんどん近づいてくる。男から漂う、抑制の効いたプロの殺気のようなものが、ざわりと空気を揺らした気がした。男はあたしの首に回した腕に力を込めた。純度の高い鉄でできているかのような恐ろしい腕にギリギリと絞められ、あたしは低く呻いた。 「好きだったんだよ。写真集も持ってる。小津ファンには悪いけど、ぼくに言わせりゃ、『男はつらいよ』の山田洋次のほうが笠智衆の使い方、心得てたぜ」 ところどころに笑い声。 意識が遠ざかっていく。首に回された腕は鋼鉄のように冷たく、硬い。 「どーでもいいよ。幾つだったの」 ふいに首が鉄の締めから解放された。あたしは目を見開き、何度も喘いで、白くかき消えそうになる意識と戦い、脳に酸素を送ろうとやみくもに息をした。そうしながらも、男に向き直り構えようと、体の向きを変える。 「八十八歳だよ」 男の姿はかき消えていた。 あたしはまた喘いだ。 信じられない……。 「えー、すげー長生きじゃん!」 助かったのかもしれない。 角を曲がってきた、ラフなシャツにジーンズ姿の大学生らしき若者グループ。ヤツらの目に入ったのは、路上で痙攣する血まみれの女と、それから……。 壊れた電気仕掛けの人形のように、ぐらつきながら立ちつくしているあたしの姿。 「えっ…………おい」 若者の一人が、目を丸くしてあたしに声をかけようとした……。 あたしは安堵のあまり、思わずフッと笑った。ほんとに、笑っちゃったのだ もちろんそれは一瞬のことで、次の瞬間、あたしの役立たずの躰はグラッとかしいで……。 そして、その場に、電池が切れたかのようにどさりと倒れた。 「………………それの、どこが」 弥生は眉間にしわを寄せ、ロングヘアを細い指でかきあげながら、あたしを見た。 「おもしろい話なんだ?」 「あたしに好意をもってない……もっと言えば、なんかの任務で無茶やって、地雷でも踏んで粉々に吹っ飛んでくれねーかなーなんて思ってる面々には、超、超、おもしろい話なワケよ」 弥生は沈黙した。顔を上げてチラリと見ると、大まじめな、心配そうな顔つきになっている。 弥生はこういうヤツだ。しっかりして世慣れたキャリアウーマンに見えて、意外と、ブラックな冗談が通じない。純真でスレていない無邪気な幼女のような精神を、その細いしなやかな躰の中にずっと持ち続けている。 「そんなに敵が多いのか、まりな?」 「そりゃあね。好きなようにやってりゃ、味方も敵も多くなるわ。あんまり気にしないようにしてる」 任務達成率の高さと、譲らない頑固さ。この二つがそろえば、職場で煙たがられるようになるのは簡単だ。同期の面々は心のどこかで、優秀だけど生意気な女 性捜査官、法条まりなを打ち負かしてくれる、ゴジラみたいなスーパーな悪役を望んでる。そして、それが現れたってわけだ。黒服に身を包み、闇の中か ら……。 「あのなぁ、まりな……」 弥生はかすれた声になった。 「わたしは心配してるんだ。家の前でいきなり襲われるなんて、早々あることじゃない。その刺されていた女は助かったのか」 「死んだわ。心臓をきれいに刺されて、ほぼ即死だって」 あたしは務めて軽く言った。あのとき脳天気な大学生たちが角を曲がってこなかったら、あたしだってあのまま死んでいたかもしれない……。 結局あたしは、肋骨を二本骨折し、そのうちの一本が内臓を圧迫しているものの、幸い命に別状はなかったのだ。でも、当然といえば当然だが、あたしは運び こまれた病院で絶対安静を言い渡され、駆けつけた本部長によって、強制入院と相成った。結局、楽しみにしていた旅行はお流れ。そのことで文句を言うと、本 部長は「命あっての物種だよ」と一言だけ言って、あたしの頭を子供にするみたいにポンポン叩き、病室を出ていった。 じじむさいセリフ……いまどき、格言なんて日常会話で使う人がいるだろうか。あたしは笑ってしまって、でもなぜかジンとして、出ていく本部長の痩せた背中は涙で少しかすんでしまった。 「地元の警察署の管轄だから、公安は口を出せないんだけどさ。あたしもこの病室で事情徴収されたっきり、なんにも訊いてないし」 「犯人は捕まっていないのか」 「そ」 弥生は不安げに病室のドアを見た。あたしは気軽に「大丈夫よ。一応警官が見回ってるし、あたしだって油断してない」と言った。 弥生は振り返った。あたしの強がりをわかってるらしく、いたわるようにベッドの掛け布団の上に手をおいた。なんどか撫でさすり、黙っている。 母親の手みたいに暖かくて、でも少し遠慮がちで……あたしはまたジンとした。 怪我をしていると、気持ちまで弱っちゃうのかもしれない。ほんの一週間前まで、大捕物に気を張って強気でガンガン行動していたのが夢みたいだ。いまのあたしは幼児返りしたみたいに、ふにゃふにゃして、頼りない。 暖かな弥生の手のひらを掛け布団越しに感じながら、あたしは小さい声で言った。 「じつはさ、ちょっとさ……」 「なんだ、まりな?」 「気に、なってることが、あるんだ」 弥生の顔が少し緊張した。あたしは思い切って言った。 「あの夜、あたしの着てた服覚えてる? 今年の流行色、スモーキーピンクのブラウス。光沢のあるシルクで、ボタンはパールっぽいヤツで」 「あぁ、覚えてる。今年はこの色らしいからな。でもまりなは、単に流行を取り入れるにしても、素材のいいものを選んでるし、デザインも微妙に凝った、人とは違うものを捜してるだろ。相変わらずだな、と感心していたんだ。だからよく覚えてる」 「刺されて死んだ女性も、同じスモーキーピンクのブラウス姿だったんだ」 あたしの脳裏に、倒れた女性の胸からどくんどくんと血が流れ出して……寒々しいピンクの布地に染み込んでいくあの赤のイメージが蘇った。表情が硬くなるのが、自分でもわかる。 「………………ふむ」 弥生は慎重に、ゆっくり頷いた。 「つまり、まりなはこう思っているんだな。……狙われたのは自分かもしれない」 あたしは顔を上げた。 弥生は真剣な表情であたしを見ていた。不安げなあたしの視線から、目を外さない。 思い過ごしだ、被害妄想的だと一笑に伏されることも考えていたけれど、弥生はそんなふうには聞きとばさなかった。それに勇気づけられて、あたしは続けた。 「あのとき……倒れた女性を見下ろしていたとき、あの男、なんだか呆然としているような、変な感じに見えたのよ。一刺しでカタをつけたものの、倒れた相 手を見て……なにか間違えたっていうような。なんとなくそう感じただけなんだけどね。そして、足音を聞いて、顔を上げて……あたしをみつけたとき」 「みつけたとき?」 「ビリッと電気が走ったような気がした。あいつ、あたしの顔を認識して、反応した」 あのとき、あたしは角にある電柱の下にいた。こちらからは見えないけれど、男のいた暗闇からはあたしの顔はよく見えたはずだ。電柱に取り付けられた白灯によって……。 もしかしたら、あいつが狙っていたのはあたしだったのかもしれない。サン・マンション……あたしがずっと住んでいるビルの前。昼間からあまり人通りはな く、夜になるとなおさらだ。あいつが昼間からあたしのことをつけていて、あの場所で、無防備な状態で帰宅するあたしを待ち伏せていたとしたら……。 めずらしい(今年に限ってはそうじゃないけど)カラーの服、同じくらいの体格と髪型。暗闇で、あいつはあの女性を、あたし……法条まりなだと誤認識したのかもしれない。 「…………そうか」 「……考えすぎかもしれないわ。この件の捜査を担当している刑事にも一応話したし。いまのところ、つけ狙われるような怪しげな事件も担当してないしね」 あたしは肩をすくめた。 「それより……あ〜ッ、悔しいのはフィジー行きがパーになったことよ。せっかくの長期休暇なのに〜ッ」 弥生が髪をかきあげ、悪戯っぽく言った。 「休暇って、どれぐらい取ったんだ?」 「一ヶ月」 「…………そりゃ、長い」 弥生は立ち上がり、テーラードスーツの襟元を細い指で整えた。 「まぁ、安静にしていることだ。病室から出ず、見回りの警官にもよく頼んで……。退院してからは、不安だったら」 あたしを見下ろして、強い口調で言う。 「しばらくうちにいればいい。遠慮はいらないぞ」 「って、例の“前髪の長い男”はどうするのよ」 「追い出す。友達のほうが大事だ」 だいぶ無理をしているのがわかった。弥生は強く見えて、脆い。好きな男と一緒にいることが、いちばん精神を安定させ、弥生を弥生らしくするのだ。それなのにあたしのことを心配して、そんなことを言う。 あたしは笑って「大丈夫。いざとなりゃ、本部長を追い出して本部長の自宅に泊まるわ」と言った。 「それもいいけどな。ほんとに、遠慮するな。命のほうが大事だ」 「わかってる。サンキュ、弥生」 弥生は目尻を下げるように優しげに笑った。 それから「あ、そうだ」と細い指をパチンと鳴らし、スーツの胸ポケットに手を入れた。 「ほら、これ」 財布から一万円札を抜き出し、ベッドサイドのテーブルにおく。 「なによ」 「こないだの飲み代。酔っぱらって覚えてないが、払った記憶がない。まりなが立て替えておいてくれたんだろう」 「いいわよ、そんなの。あたしが呼び出したんだし、あたしのオゴリよ」 「ダメだダメだ。こういうことはキッチリしないと。それが友情を長続きさせる秘訣だ。ここにおいていくぞ」 弥生はまた微笑して「はやく怪我を治せよ」と言った。 「わかってる。弥生も頑張ってね、仕事と……例の男との恋愛」 「あぁ、頑張るよ」 弥生は手を振って、病室を出た。 出ていくとき一瞬振り返り、心配そうな視線をあたしに投げた。 あたしはそれに気づかないふりをした。 弥生はほんとうにいいヤツだ。 「法条捜査官……」 十五分ほど経って、あたしがぼんやり文庫本に目を落としていると、見回りの若い警官がやってきた。 顔を上げると、敬礼した状態で入り口に立っている。あたしは「入っていいわよ」と言い、文庫本をベッドサイドのテーブルに置いた。 「はぁ、じつは……」 間延びしたような口調で言う。 「さきほど、お友達が帰られてから、妙な男を一瞬見たんですが……」 「妙な男?」 あたしは起きあがった。自然に目つきが鋭くなる。 「はぁ。全身黒づくめで……。法条捜査官のおっしゃった特徴と似ていたので、気になって」 「この辺にいるの?」 「いえ、お友達と同じ駅の方へ歩いていきました。病室には近寄らなかったので、たまたま服装がそうだっただけかと思い、後は追いませんでしたが……」 「…………そう」 あたしは頷いた。 黒づくめの男なんて、そう珍しくない。あたしは警官に「ご苦労さま。またなにかあったら言ってね。その件は多分、気にしなくていいと思うわ」と言った。 「はっ、失礼します」 若い警官は、敬礼して、出ていく。 もう一度文庫本を手に取ろうとして、あたしは眠気を感じてきたような気がして、やめた。 横たわって、枕に深く頭を沈める。 窓の外は日が落ちて、濃い色に染まった雲が切れ切れに浮かんでいる。街路樹の先端が、外にある大通りに沿って並んでいる。それにときどき鴉が止まり、またばたついて遠ざかる。薄暗く寒々とした風景。 不思議な違和感…………心臓がざわざわとするような不安な思いが胸の中に押し寄せてきた。 黒服の男……。 でもそいつは、駅の方へ歩いていった……のよね……? あたしは眉をひそめた。胸にたまっていく不安の正体を捕まえたくて、でも、できなかった。それに、眠いわ……。 あたしはうとうとと眠りに落ちていった。のどかな、危険なほどのどかな眠りに……。 <to be continue……> |