The Beginning EVE
まりな編 第四話

199X.4.12 曇りがちの夕方
国立K病院病室 入院患者用ロビーの隅


 誰かがテレビのチャンネルを変えた。
 スリッパをパタパタさせながら早足で通り過ぎようとしていたあたしは、入院患者が古い革張りソファに思い思いに体を沈めているロビー中央で、足を止めた。
 スピーカーから流れていた、お昼にやっているのんきなバラエティ番組の喧噪がとつぜん消える。アナウンサーの低音の声が響き始め、あたしはその場で腕を組んで、ニュース映像をみつめ始めた。
 三十インチほどの大型テレビには、鮮やかなブルーが広がっていた。その真ん中に映っているのは、二枚の一万円札。
 『…………捜査本部では今度も捜査を続ける方針です』
 画面が、見慣れた霞ヶ関の警視庁前に立つ、若い記者のバストアップに切り替わった。風が強い日らしく、長めの坊ちゃん刈りが強風のせいで真横に旗のようにたなびいている
 『以上、警視庁からお送りしました』
 スタジオに切り替わったカメラが、ニュースキャスターと、次のニュースのテロップを映し出す。いまのニュースはなんだったのかしら? とあたしは首を傾げながら、側の革張りソファに腰を下ろした。
 力を抜くと、体がふいに重みを増したように、ソファの奥へとどっしり沈み込んだ。入院生活も一週間が過ぎている。運動不足か、気力の減退か。理由はよくわからないけれど、あたしの体はすっかりなまってしまっていた。
 『つづいてのニュースです……』
 画面右上に、見覚えのある老人の顔が映し出される。『銭丸元副総裁を逮捕に追い込んだ“ ゼネコン疑惑 ”解明に検察は力を注いでいますが、国会での証人喚問は、証人たちの『記憶にない』『わからない』といった発言に批判が集まっています。野党議員はこれを受け…………』
 あたしはため息をついた。このニュースはあまり聞きたくない。
 このゼネコン疑惑の捜査にも、初期の段階であたしたち公安第六課が関わっていた。警視庁上層部の要請で協力したものの、さまざまな証拠をみつけて真相を組み立てていくうち、ある日ふいに「公安はここまででけっこう」とお払い箱になった。
「真相に近づきすぎたんだよ、ぼくたちは」と言ったのは甲野本部長。「この件は政治家がらみなだけに、扱いが非常に困難だ。どこまで真実を明るみに出すの か、その案配を決めるのは“正義”なんて抽象的なモノでもなく、ぼくたち捜査官でもない。“政治”さ。そして“経済”への影響如何にも左右される」
 むりやり忘れることを強要された任務は、これだけじゃない。その一つ一つが澱になってあたしの中に溜まっていき、知らないうちにあたしを変えていってしまうんだわ。ものわかりのいい大人に。
 …………あたしはだるい体を起こしながら、またため息をついた。
 入院して一週間も経つと、見舞いにきてくれる友達も品切れだし、この機会に読みたかった本も征服し尽くした。ゲームは「そのへんな形のボタンを押す音が カチャカチャうるさくて、眠れやしないよ」と隣のベッドのおばあさんに再三文句を言われて断念したし……つまり、退屈で体調も悪くて、あたしはいま、非常 にネガティブで攻撃的な精神状態になっているのだ。
 ソファからむっくり起きあがったあたしは、ロビーを横切ろうとした最初の目的のために、またスリッパをパタパタさせて歩き出した。ロビーの横にある売店に向かい、ビタミンやミネラルを配合した微炭酸のジュースを買う。
 おばちゃんに「百十円ね」と言われ、頷いて財布を出した。あいにく小銭が切れていて、札入れのほうも一万円札ばかりだった。あたしは「ごめんね、大きいのしかないわ」と言いながら、お札を一枚だした。
 受け取ったおばちゃんは、なぜか冗談っぽく「本物だろうね」と言って、一人でケラケラと笑った。意味がよくわからなかったので、あたしはきょとんとして、ジュースのプルトップを開け、その場で一口、飲んだ。
 一万円札をかざしたおばちゃんの顔から、ふいに、残っていた笑いの余韻が消えた。真面目な顔になり、お札をそっとさすったり、裏返したりし始める。
 「…………なに?」
 ジュースを飲みながら問うあたしの顔を見ないように、おばちゃんはコソコソと奥にいる別の店員と話し始めた。
 ロビーの大型テレビが、まだニュースを流し続けている。さっきと同じ声で、次のニュースが始まった。
 『さきほどお伝えした事件の、続報です。本日昼前後から、関西地区を中心に大量に発見された…………』
 発見されたって……なにが?
 なにか予感がした。
 テレビのほうを振り返ろうとしたあたしの目に、不思議な光景が飛び込んできた。
 おばちゃんが、あたしのほうをチラチラ気にしながら、顔に張りついたような不自然な笑顔を浮かべて……売店の台の下に手を伸ばしている。多分あの場所には警報機のボタンがあるんじゃないかしら。なに? なにがあったの?
 『発見された“ニセ一万円札”は、銀行等の両替機を通過しているとのことで、捜査本部は…………』
 あたしは、おばちゃんが手に握りしめた一万円札を見た。おばちゃんは泣きそうな顔で後ずさり始める。
 待って、どういうこと……と言いそうになったとき、ロビー全体に、鼓膜を震わせるような警報音が響きわたり始めた…………。


 「どういう……」
 「どういうこと? って質問なら、聞きたいのはあたしのほうよ、本部長」
 本部長は顔をしかめる。「ま、そうだろうね」と頷くと、その傍らにいたスーツの男が「ふざけた態度はよしたまえ、法条まりな一級捜査官」と固い声で言った。
 運び込まれて数日の間、あたしが使っていた個室の病室。警視庁がかけあって空けてもらい、あたしはこっちに移された。ベッドを取り囲んでいるのは、本部長と、初対面の刑事たち。
 本部長に紹介されたところによると、彼らは警視庁捜査三課贋幣詐欺捜査班 ……略して贋幣班の刑事たちだった。貨幣や国債の偽造事件を専門に捜査する部署だ。
 スーツを着た若い刑事が、ため息をつきながら言った。
 「もう一度説明しよう、法条まりな一級捜査官」
 いっきゅう、のところにイヤミったらしい抑揚をつけ、言葉を切って、あたしの顔をじっと見据えた。隣にいた本部長が「武道だったらつぎは初段ってところ だね。なんちゃって」とつまんないことを言い、攻撃の矛先を自分のほうに引きつけてくれた。男は耳を真っ赤にして本部長を睨みつけ、あたしは笑いを抑える のに苦労した。
 「この事件……捜査本部では“和D−53号”と命名した。和とは一万円札の意味で、Dとは一九八四年から造られ始めたD券、数字はこの札での五十三件め の事件という意味だ。この事件が発覚したのが、本日の昼。場所は大阪、神戸を中心とした関西地区。都市銀行両替機、JR各駅の自動券売機が狙われた。和D −53号は精巧な偽札とは言い難い。印刷のズレも見えるし、人の手で触れば、注意していれば気づくレベルのものだ。ただ……」
 男は言葉を切った。
 「機械を簡単に通過するという恐るべき特徴がある」
 部屋の中がシンとした。男は続ける。
 「現在、使用されている機械は、札の模様や材質のほか、特殊な配合の磁気インクで刷られた札が発する磁気によって真札の中から偽札をはじき出すシステム になっている。和D−53号は、きわめて特殊な、本物とほぼ同じ磁気インクを使用して造られている。そのため、機械は見破れなかったわけだ。  犯人たちはその特色をよく知っている。だから、機械だけを騙した。銀行窓口など人が直接札に触れる場所では一切換金を行っていない」
 「はぁ……」
 気のない返事をすると、男はカッとしたように叫んだ。


 「それなのに、なぜ、公安の一級捜査官が、入院中の病院の売店で、その“和D−53号”を堂々使ったんだと聞いてるんだ!」


 病室は死のような沈黙に包まれた。
 あたしは吐息をつき、冷静な口調で言った。
 「どこをどう回って、これがあたしの財布に入ったのか、まるきりわからないわ。旅行のためにまとめて銀行からおろしただけだし、その銀行名と日時はさっき伝えたはずよ」
 「その銀行には、いま、安田さんが向かっておられます」
 男の傍らにいた新米風の刑事が耳打ちした。
 「安田さんか……」
 男はなぜか吐息をついた。「安田さんが、ね……」また呟く。…………どうやら贋幣班にも、鼻つまみ者の刑事が一人いるらしい。
 安田さん、安田さん……。あたしは、見たこともないその刑事にちょっと共感を覚えた。
 「とにかく、関西地区以外でも一枚、和D−53号が発見されたことと、しかもその一枚を使用した“重要参考人”が公安の捜査官だということは、こちらの 権限で情報にストップをかけた。法条一級捜査官、あなたはこの件が解決し、我々が容疑者を押さえるまで、このK病院に入院していてもらいたい」
 「はっ…………って、ちょっとそれどういうこと?」
 「あなたは重要参考人だからね。勝手なことをするとそれだけあなたも不利になる。では、これで……」
 刑事たちはそそくさと部屋を出ていく。
 急に人がいなくなってガランとしたその個室で、あたしは、パイプ椅子に腰掛けてこっちを見ている本部長に声をかけた。
 「あたし、疑われてんのね。本部長」
 「形式だけだろう。それに、公安と捜査三課はもともと仲が悪い」
 「いやがらせ?」
 「それもあるな。まぁ……」
 本部長は立ち上がった。いつもの脳天気な口調で言う。「心配することはない。たまたまの巡り合わせで、その偽札は君のところに回ってきたんだ。幾つかの 機械を通り、巡り巡って、たまたま君がそれを、報道のあった日に売店で使った。ババ抜きでジョーカーをもっているときに、相手が上がっちゃったようなもの さ」
 「そうかしら……?」
 銀行でお金を下ろした以外、なにも思いつかない。なんだか変な感じだった。なにかを忘れてる、なにか違うって気がしてしょうがない。
 本部長の言う通りなのかしら? でも、あたしは、たとえばみんなと同じ弁当を手にしたのに一人だけ箸が入ってなかったとか、道を歩いていてたまたま看板 が落ちてきたとか、そういうことに“見舞われ”やすいタイプじゃない。どちらかというと強運の持ち主。占い師にも「すごい星の下に生まれたもんだ。たまげ たね」と言われたことがある。……なんか変だ。
 それに…………。
 このあたし、無敵の任務達成率を誇る公安六課の法条まりな一級捜査官が、よりによって、へぼい偽札を掴まされるなんて!
 入院生活のせいでゆるんでいた頭のネジが、ギリギリと締まっていく音が聞こえるような気がした。あたしの中に気力が戻ってくる。負けん気の強さと、大き な謎に挑むときのあのなんともいえない高揚感が、あたしの周りに、強いオーラとなってまとわりつく。
 「決めたわ、本部長」
 「ダメだよ、まりな君」
 本部長はこともなげに言った。張り切っていたあたしは、ガクッとして振り返り「んあ?」と返事した。
 「なにがダメなの」
 「いま君が考えてること」
 本部長は意外なほど硬い表情をしていた。さっき贋幣班のヤツらがまくしたてていたときの三倍ぐらい硬い。
 おごそかな口調で、あたしをたしなめる。
 「和D−53号事件に首をつっこもうとしているだろう。それはダメだ。職務権限を越えるし、おそらくそれは、心理学的にいえば、幾つかの尻切れトンボに終わった任務に対するすり替え行為に過ぎない」
 「そんな……」
 あたしは反論しようとして、やめた。
 本部長の言うとおりだ。
 「…………わかったわ」
 「いい子だ」
 本部長は唇の端を持ち上げて微笑した。それが苦い笑いに見え、こちらをみつめる瞳はいつになく寂しそうで……あたしはふと、本部長もずっと若い頃、いま のあたしみたいに苦しかったことがあるのかもしれない、と思った。いまはもう、ずっとずっと大人になってしまったけれど。だから無茶ばかりのあたしにこん なに優しいのかしら……?
 あたしの顔にも、微笑が浮かんだ。
 ほろ苦い微笑。
 あたしも大人にならなきゃいけない。


 夜になって、あたしが枕元のスタンドを頼りにゲームに耽っていると、ふいにドアの外に、人の気配が漂った。
 コントローラーを離して、起きあがる。
 この個室には、誰も近づけないはずなのに……? 相次ぐ事件のおかげで、二十四時間警官が見張っているのだ。
 ノックの後、ドアが開いた。男が立っていた。
 年齢は四十代ぐらい。疲れた肌とやけに型くずれしたバーバリー のスプリングコートがまず目に飛び込んできた。
 「法条さん?」
 「ええ。あなたは」
 構えているあたしに、男はポケットから無造作に黒い手帳を出して見せた。
 私服の同業者ということか。だから警官は通したのだ。
 でも、誰?
 あたしの頭に浮かぶ疑問を、男はしばらく楽しむように、黙ってこちらをみつめていた。あたしはしびれを切らして「部署名と名前、そして用件は」と固い声で言った。
 男はあたしをみつめている。ふいに微笑した。目尻に細く皺が寄る。

 あっ、

 やばいかも、
 とあたしは思った。
 遠い記憶が蘇ってしまう…………それは、ずっと幼い頃に見た、抱き上げて頬ずりしてくれたときのパパの顔かもしれないし、何年か前に別れた、そのときは とても好きだった恋人の、あたしをみつめる優しい顔かもしれない。あたしという女の短くはない歴史の中で、繰り返し現れ、関わった男の顔。それはそれぞれ がまったく別の男だったのかもしれないし、結局は同じ一人の男なのかもしれない。あたしは、もう会えないパパの面影を追いかけて、あの顔を求め続けて恋を しているのかもしれない。
 男の微笑にも、その兆候があった。あたしはいやな予感がした。この顔を知っている気がする。懐かしい気がする。あきらかに、初対面のこの顔に、あたしはなにかを感じる。
 「警視庁捜査三課贋幣詐欺捜査班の……」
 男は早口で言った。低い声。
 上質なバーバリーのコートなのに、なんでそんなに形が崩れているんだろう。肩のラインはガタガタだし、襟も袖もほつれかけてる。よっぽど、捜査の張り込みや泊まり込みの間、着っぱなしで寝起きしたりしていたに違いない。
 男の顔を見て、彼自身も、そのバーバリーのコートと同じだと気づいた。目鼻が整った美男子で、繊細そうな、でも意志の強そうな上質な顔をしている。でも その肌は荒れて、疲れ切っている。いいものが、汚れてる。正しく扱われなかったせいで。男からはそんな感じがした。
 男はあたしを包み込むように微笑し、そして名乗った。

「安田と申します」 <to be continued……>