The Beginning EVE
まりな編 第五話

199X.4.15 カラリとした朝
日比谷公園 噴水の近くの冷えたベンチ


 遠くから、見慣れた人が近づいてくるのが見えた。左肩を少し落として、捜し物でもしているみたいにうつむきがちに歩いてくる。
 きりりと冷えた鉄製のベンチに体を預けながら見ていると、甲野本部長もあたしをみつけて、ポケットから出した手を振ってみせた。
 本部長のスーツと同じ色の小さな鳩たちが、近づくにつれ次々飛び立ち、道を空けていく。
 「やっぱりここだ」
 「あん?」
 「まりな君は、任務のことで落ち着いて考えたいとき、見晴らしのいい屋外にいくことが多い。とくにここは、君のお気に入りだ」
 「よく知ってるわね」
 「ここで、寒い日にソフトクリームを食べるのが好きだってことも知ってるよ。意外とマゾだね」
 言いながら本部長は、ポケットから小銭を出して、近くの屋台にブラブラ近づいた。戻ってきてあたしに、真っ白のソフトクリームを渡す。
 「はい、お嬢さん」
 「……ありがと」
 「ボクはホットコーヒー。マゾじゃないからね」
 なにか言いたげだ。あたしは黙ってソフトクリームを舐め始めた。寒い。でも、おいしい。
 「病院を訪ねたら、いなかった。三日前、贋幣班の刑事がやってきて、随分長いこと話し合っていたようだと若い巡査が教えてくれた。贋幣班の安田功志刑事……任務達成率は優秀だが、組織の一員としては問題も多く、同僚には煙たがられている」
 黙っていると、本部長は「誰かに似てるね」と言った。
 ソフトクリームは、一心に舐めているのになかなかなくならない。あたしは居心地悪くて、少しうつむいた。本部長は容赦なく続ける。
 「誰もが多かれ少なかれそういう欲求を持っている。自分と似た異性に惹かれる。理解してほしいんだ。そして自分も、相手の心の謎を解く唯一の鍵になりたいんだ。でも……」
 「でも?」
 「うまくいかないよ。傷つけあって終わりだ」
 「ずいぶん短絡的ね。もっと恋愛経験豊富なのかと思ってた」
 「ボクとワイフは、正反対の性格だ。彼女がふざけたり悪ノリしてるところなんて見たことないね。だからうまくいく」
 「好きになっちゃったの」
 ポロッと言うと、本部長は一瞬、ビクリと体を震わせた。しばらく黙っていて、困ったようにあたしを見た。
 鳩が脳天気に首を前後させながら、何羽もあたしたちの前を通り過ぎていく。仕事をさぼる営業マンがとなりのベンチで漫画雑誌を広げ始め、学生らしき若いカップルが、ぎこちなく手をつなぎながら歩み過ぎる。
 「ボクは部下の恋愛には口を挟まないよ。任務さえしっかりこなしてくれれば文句はない」
 「そう。よかった」
 「早く怪我を治して、休暇の間はゆっくり体を休めて、また復帰してほしい」
 飲み終わったコーヒーの紙コップをゴミ箱に捨てる。
 本部長にはわかってるんだ、とあたしはうつむいた。休暇中で、しかも入院しているはずのあたしが、ここ、 日比谷公園 ……いつも任務遂行中に精神統一のためにやってくる場所……にいるということは、つまり、あたしが勝手になにかに首を突っ込み、捜査を始めているということだ。
 わかっていて、やってきた。そしてやんわりと釘を差す。
 「さて、分室に戻るか」
 軽い口調で言って、また手を振って歩き出す本部長の背中を、しばらく見ていた。
 食べ終わったソフトクリームの包み紙を、くしゃくしゃにして遠くのゴミ箱に投げた。弧を描いて見事にホールインワンしたので、通りがかった若いサラリーマンが、ひゅうっと口笛を吹いて讃えてくれた。
 あたしはそいつにウインクでこたえた。
 まだカンは鈍ってないらしい。


 「和D−53号の特徴は……」
 あたしは低い声で書類を読み上げた。
 「その一。福沢諭吉の肖像がぼやけ気味で、色が若干濃い。  その二。記番号がない。もしくは太くて黒く印字されている。  その三。紙質が柔らかく、触るとすべすべしている」
 「一つ忘れてるぞ、法条捜査官」
 低い声。あたしは首の辺りがぞわぞわして、落ち着かなくなった。
 「その四。右下の視聴覚障害者用識別マークが白く見える」
 「そうだったわ」
 あたしは肩をすくめた。
 沈黙が続いたので顔を上げると、安田功志はテーブルの向こうで目をつぶっていた。日比谷の喧噪から少し奥まったところにある、落ち着いた雰囲気のコー ヒー専門店。ゆるやかな川の流れのように店内にかかっているクラシックに、浸るように耳を傾けているらしい。
 「クラシック、好きなの?」
 聞くと、安田は目を開けて、首を振った。
 「いや、よくわからない」
 「バッハが好きなのかと思った。気持ちよさそうだから」
 「これ、バッハなんだ」
 沈黙が流れた。
 安田はコーヒーカップを手にとって、ゴクリと飲み、こちらを見た。
 一見、ダンディな中年男。でもどこかつかめない、わざとはぐらかしているようなところがある。そのはぐらかし方はまるで若い男みたいで、あたしはときどきとまどってしまう。
 どうして、あたしみたいな公安のはみ出し者を、軽く拾ってくれたのだろうか。
 ……あの夜、病室を訪ねてきた安田刑事に、あたしは、初対面なのに思いのたけをぶつけたのだった。今の仕事への不満。怪我をして病院にいることへの焦り。偽札を掴まされたことへの憤りと、この事件に興味を持っていること。
 (じゃあ、一緒に捜査すればいい)
 安田はいとも簡単に言った。
 (ぼくは贋幣班では単独で動いている。優秀な人間とでなければ組む必要はないと常々言っているからね。あなたがぼくと一緒に動いても、誰も不審に思わないはずだ)
 ただし、と安田は続けた。(15日の昼までに、自分でこの件を調べ、あなたなりの意見をまとめておくように。それ如何によって、あなたを認めよう)
 そういうわけで、あたしはいま、安田刑事に向かって報告をしているわけだ。朝から日比谷公園で外の空気を吸い、考えをまとめて。
 「問題は、磁気インクね。おととい来た、あなたの同僚も言っていたけど」
 「ボスだ。一応、ヤツが三課の課長代理」
 かすかに苦々しげな響きがあった。あたしとよく似てる。思わず苦笑した。
 「真札には、酸化鉄分に着色顔料などを混入した磁気インクで印刷された部分があるわ。機械の磁気センサーがそれを確認し、真札と判断する。印刷されたどの部分に磁気インクが使用されているのかは極秘事項」
 「だが、磁気測定器を使えばわかる」
 「そう。ただ、そういった特殊なインクを製造しているのは、あたしが調べたところ、日本国内には六社しかないわ。小切手や預金証書に使うインクを製造している工場。ここを当たれば、犯人の特定は意外と簡単かもしれない」
 「ぼくが捜査会議で提案した。いま、当たっているところだ」
 安田はコーヒーを飲み干した。
 立ち上がったので、あたしも書類を鞄にしまい、上着を着た。
 外に出て、歩き始める。銀座に向かう小通りをブラブラと歩く。
 「君は……」
 安田が呟いた。
 「確かに優秀だね。噂通りだ」
 「どんな噂?」
 「頭がきれて、行動的。人情に溢れ、いつもまっすぐだ。女の子たちに人気あるね。婦警たちはみんな、君が目標だっていってるよ。憧れのお姉さんってとこ ろかな。上層部の年寄り達は、君をおもしろがる余裕のあるヤツと、デキる女を嫌って、まるで君がいないかのように振る舞うヤツと。同僚の男たちは、みんな 君に魅力を感じてる。でも、優秀すぎる君に恐れをなしてる。ほんとは、気のいい飲み友達になれる女だってことに気づかない」
 「…………驚いた」
 あたしの評判を調べていたらしい。あたしが事件について調べている間に。
 「君のことをこう言っていたヤツがいたよ。『法条のヤツは、江戸時代の岡っ引きにでもうまればよかったんだ。走り回って証拠をみつけ、犯人を割り出し、人情で解決する』」
 あたしは苦笑いした。なんともいえない、ここ半年ほどのあいだ何度も感じた、じっとりしたいやな思いが胸にこみ上げてくる。「安田さんもそう思う?」と務めて軽く訊くと、安田刑事はプッと吹き出した。
 いいタイミングでジョークを飛ばされたときみたいな、気持ちのいい笑い方だ。あたしはとまどった。
 「ははははは……」
 「なによ、笑い出して」
 「思うわけないだろう。あんまりぼくを舐めるなよ」
 「は?」
 「君はね」
 笑いがすうっと顔の中心に向かって引っ込む。背筋が冷たくなった。
 安田刑事は足を止め、あたしを見据える。
 「周囲に、こんな女だと見せている姿より、ほんとうはもっと冷酷だ。褒めているんだ。それはもっと有能になれるということだ。君は人情に厚く、情に流されそうになることもあるだろうが、けして……流されはしないよ。必ず任務を遂行する」
 「そう……かしら」
 「ああ。実力もあり、プロ意識も強い。五年後の君が見てみたいね。おそらく、公安でも並ぶもののない、優秀なエージェントになっているはずだ」
 あたしの顔が徐々に引き締まっていった。
 そんなふうに言われたことはなかった。いつも逆だった。どうせマグレだよ。新人の女のエージェントに、あれだけの任務達成率が出せるわけないだろ……。あたしはずっと、自分で自分にハッパをかけてきた。
 ほんとは、誰かにそう言ってほしかったの。
 君は優秀だ。君はのびる。
 君には可能性がある。いまはまだ、駆け出しのエージェントだけど……。うまくいかないことも多いけれど……。
 君には未来がある。そう言ってほしかった。
 「上司が君を甘やかしている。人情家の上司のおかげで、君も本来の冷酷なまでのプロ意識を発揮しそこねている。ぼくは甘やかさない」
 また足を止めた。路上でみつめあう。
 いままでに出会った、“素敵なおじさま達”とはまるで違った。おじさま達はあたしを甘やかし、仕事で突っ張っているときにはできない、子供に戻ったよう な至福の瞬間をくれた。でもこの人は違う。いまもあたしを見据えて、挑戦しろ、実力を見せろ、ぼくに自分の力を証明しろ、というように目を逸らさない。
 この人についていったら、なにか変わる気がした。
 どうしてもみつからなかった突破口が、なぜかすぐそこにあったような……。  この人に認められたい。誰よりも……本部長より、あたしを目の敵にしている同僚より、もっといえば、自分自身より……この人に、自分の持ちうるすべての力を証明したい。
 もう、これが恋なのかなんなのか、あたしにはわからなかった。みつめていると、触りたい、キスしたい、そんな気持ちだってもちろんある。でもそれ以上 に、そこに立つ、あたしがいきたいと思っている場所にすでにいる人……実力を持ち、落ち着いた年上の男に、強い畏怖を感じ、立ちすくんでしまう。
 恋なのかなんなのか、もうあたしにはわからない。
 ただ、強烈な思い……安田功志という一人の男への強い執着だけが、あたしの躰を覆い尽くしていく。
 細かいトゲが刺さったように、体中がビリビリと痛い。
 あたしは目を逸らさなかった。
 彼のほうが先に、目尻に皺を寄せて微笑し、あたしの頭を、小さな子供にするように手のひらで包んで抱き寄せた。
 「飯でも食うか」
 「………………うん」
 あたしは、金縛りからとけたように全身の力を抜き、コクッと頷いた。


 「問題は……」
 あたしは出てきた料理を箸でつつきながら言った。
 「動機よ」
 安田の顔がぴくりとした。
 ゆっくりと顔を上げ、「ふむ」と言う。
 「それは初めて聞く意見だな。捜査会議でも、みんな犯行の方法だけに神経を集中している。動機なんて決まってるんじゃないのか。金がほしいのさ。違うのか?」
 「今日の時点で発見された偽札は、五百枚弱よ」
 あたしは反論した。「つまり、犯人の儲けは五百万円以下ということ。単独犯ならともかく、仲間がいれば、さらに取り分は減るわ。割に合わない」  「そうか?」
 あたしは、鞄の中にある書類の文章をそらんじてみせた。
 「製版カメラが百万円から一千万円。オフセット印刷機は最も安いもので六千万円。カラースキャナーも、あのレベルのものを印刷するなら五千万円以上する わ。つまり一億円以上の資金がかかるのに、儲けは五百万円。危険も多い。金持ちの道楽ならともかく、今回の事件はおかしすぎる」
 安田は箸を置き、黙ってあたしをみつめた。
 その瞳が鋭くなる。またビリビリしたとげが刺さったような感覚が躰を覆い始めた。手応えを感じたのだ。あたしは彼をみつめ、続けた。
 「おかしいわ。なにかがおかしい」
 安田は厳しい顔つきで「つまり?」と聞いた。
 あたしは答えた。


 「犯人たちにはパトロンがいるのよ。動機は金儲けなんかじゃない」



<to be continued……>