The Beginning EVE まりな編 第六話 199X.4.17 いまにも雨の降りそうな曇り空 サン・マンションの荒れ放題のまりなの部屋 |
『…………そういうわけで、今日もごきげんでお送りしているこの…………いやーどうも、天気が悪いとリスナーの声も元気ないねー。ダメだよみんな……。次の曲は懐かしい…………』 目覚まし代わりにタイマーをセットしていたラジオから、JwaveのDJのハイテンションな喋りが聞こえてきた。電波の入りが悪く、ところどころ聞き取れない。 天気が悪いって言ってたから、そのせいかもしれない。 起きあがろうと目を開けたとき、アメリカ製の昔の歌手の、寂しげなロングヒットが流れてきた。 昨日は……だったのに 今日は土砂降り あたしの気持ちは……で お願い ドアをあけて あなたの心にそっと入れる 秘密の小さなドア お願い ドアをあけて ……愛してるの まだ逢いたい ところどころ聞き取れない。それでも英語の歌詞はあたしの耳に自然に流れ込んできて、まだ完全に起きていない頭も、勝手にその歌詞を翻訳し始める。 プリーズ プリーズ ドアをあけて それとも そのドアが あたしの前で…………ことは もう 二度とないの? 気がつくと目からポロポロッと涙が流れ落ちていた。 あたしはびっくりして飛び起きた。 あわてて立ち上がり、ベッドを軽く整えて、バスルームに直行する。熱いシャワーで涙も寝汗も流してしまおうと、頭から湯のしぶきを浴びる。 バスタオルで髪をくしゃくしゃと拭きながら出てくると、ラジオはリスナーの失恋話をおもしろおかしく読み上げていた。 毎日、なんてたくさんの人が恋に落ちたり、別れたりしてるのかしら。それは避けられない、誰にでも順番に回ってくるお役目みたいなものかもしんない、とあたしは思った。 たとえばコウノトリが夜空を飛び、赤ちゃんを運んでくる。それぞれの家に、順番に。あたしの頭にはそれに似た光景が浮かんでいた。コウノトリが桃色の ハート型をした“恋”を運んでくるのだ。一人暮らししてる子や、親元や寮にいる子、ときには結婚してる人の家にも……。 うまくいくとは限らない。桃が腐っていくように色を変えてしまうことだってあるだろう。 DJのかけた曲が次もまた失恋の歌だったので、あたしは思い切ってラジオを切った。しんとした部屋に恐れをなして、テレビの電源を入れる。 囲碁をやっていた。……当たり障りない。これにしよ。 コーヒーを入れて朝食のサンドイッチを簡単につくり、フローリングの床に直接あぐらをかいて座る。食べながら、床に散らばった資料を足で手元に引き寄せる。 ファクシミリで取り寄せた資料の上に、パン屑が落ち、転がる。指でつまんで口に放り込んだ。 この二日で、あたしはこのニセ一万円札……和D−53号事件における捜査資料、並びに自分独自の推理による捜査をかなり進めていた。 四月十六日現在まで、発表されていないものも含め発見された和D−53号は五百枚を越えていた。そのほか、今月上旬、事件発覚の前に東京都内でほんの数 枚、使用された形跡があった。煙草屋やコンビニエンスストアなどで、店員たちはまるで犯人を覚えていないか「多分女だった気がする。髪の長い……」程度の コメントがあった。 表も裏も、写真製版を利用したオフセット印刷で刷られていた。問題の磁気インクは、東京の大手メーカーが製造するもの、大阪の商社が輸入しているアメリカ製のものとイギリス製のもの、合わせて三種が酷似している。 磁気インクの日本国内での生産量は年間で百トン未満。三種に絞られたインクにいたっては年間販売量は数十キロ程度。捜査本部では、インクからたどれば犯行グループを特定できるものとして浮き足立っているところだった。 あたしは…………。 そんな単純な話じゃないわよ、バカね、と思っていた。 そんな簡単に足跡をたどられてしまうような犯人じゃない。磁気インクを堂々使ったとしたら、それは、絶対に足跡をたどられないルートをもっているのだ。 二日前に安田刑事に言った通り、あたしは、犯人は単独犯ではなく、なにか裏があると確信していた。それは個人的な金儲けなんかじゃない、もっと組織的 な……政治的な何か。ここまでのデータを元にあたしが出した答えであり、あたしはそれに確信を持っていた。 でも、じゃあ、そのルートとは……? 政治的な背景とは? ………………いまのところあたしにはお手上げだった。 でも、この二日間、外に出て走り回るんでなく、ある意味じっとりと資料を集め、読み込み、思考するという時間をもてたことは、あたしにとって大きかっ た。こんなふうに腰を据えて捜査するのは久しぶりだ。落ち着いて、思考する。頭の中でなにかがまとまっていき、苦しい発酵機間を経て、閃く。それを材料に また、思考する。……その繰り返し。 あたしは一回り成長したような気がしていた。……大げさかな? でも、捜査以外はボロボロだった。 安田功志はあたしの手に負えなかった。ずっと年上で、任務でもなんでもあたしよりできて、飄々とした男。あたしだけが安田に振り回され、彼のほうはまったく落ち着いている、そんな感じがする。 あたしはなにかにすがるように、必死で捜査をしていた。こんなこと初めてだった。恋は楽しくて、満たされるものだと思っていた。苦しくて窒息しそうになるなんて、安田に会ったときには思いもしなかった。 君はぼくの評価を得ようとしている プロのエージェントとしてではなく 一人の女として 捜査をしている それではダメだ 君には会いたくない 安田に言われたとき、あたしはまた、トゲが刺さったような痛みを全身に感じた。 客観的に判断し、ときにはヒューマニズムからいえば冷酷なほどの 決断を下すことも エージェントには求められる いまの君に できるか? たとえば、ぼくを見捨ててでも 任務を遂行する必要があるとき? 安田の言っていることは正論だった。彼はあたしとあまり会わないほうがいいと判断したらしい。あたしがどう捜査を遂行するのかを冷静に観察し、態度を決めるつもりらしかった。 辛いことや落ち着かないことがあっても、いままで自分に勝ててきたのに、だからここまでこれたっていうのに、安田の考えや行動はなぜか、あたしをいちいち動揺させ、苦しくしてしまう。 いまこうして資料を当たっていも、心はフワフワと飛んでいく。それきり連絡はなくて、安田とは会っていないこと。なんでだかわからない胸の痛み。人恋し いのに、誰にも優しくされたくないような、不思議な頑なな気分。なんとはなしに本部長の言葉が胸によみがえってくる。 うまくいかないよ。傷つけあって終わりだ そうかなぁ、本部長? うまくいかないのかなぁ。 あたしは資料を置いて、二杯目のコーヒーをいれるために立ち上がった。ついでにフルーツも適当に切って、皿に盛る。こういうときこそビタミンを摂って、 お肌ぐらいツルツルにしなくちゃね。捜査は難航してて、恋愛で苦しんで、そのうえ化粧のノリも悪かったら目も当てられない。 ガブッ。…………ガブガブガブ。 ほとんどやけくそともいえる勢いでビタミン摂取を行いながら、資料を横目で見る。さまざまなデータや、構築された推理、その論証などが頭に浮かび、頭が コンピュータを起動したように働き出す。壁際の姿見をふと見ると、下着姿のままあぐらをかくあたしがうつっていた。セクシーなポーズ。でもいつのまにか エージェントの顔になっていて、おかしい。 どこに提出できるわけでもない、どうなるものでもない推理に頭を使い続けていると、ふいに電話が鳴った。 ベルの音が心臓を突き刺すように始まる。 誰? もしかして……いや。それはないわ。 あたしは動揺を飲み込むようにして、片手をのばし、受話器を取った。 「はろはろ〜、こちら、法条まりな」 『こちらは田中角栄。え〜、このたびはぁ〜』 「………………」 あたしはガックリとその場に倒れた。姿見の中のあたしも、床に腹這いになる。 「腰砕けになるような物真似、やめてよ。……甲野本部長」 『あれ、わかった?』 「口調は角栄だけど、声は本部長のままよ。バカね」 柔らかな声で言った、バカね、に、本部長はちょっとドキッとしたようだった。 『なんか色っぽいね、めずらしいなー』 「めずらしいはよけいよ。あたしはいつでもセクシーダイナマイト」 『それ、死語だよ』 「そうかもね、今日はなんか冴えないの」 正直に言うと、本部長はぎりぎり聞こえるくらいの微妙な声で『だからやめとけっていったのに』と言った。 「聞こえてるわよ」 『聞こえるように言ったんだよ、おじさんは。……ところで』 本部長はもったいぶるように沈黙した。 「なによ」 『いいお知らせがある。くすぶってないで出ておいで。肋骨のケガだってもう大丈夫だろう』 「だいぶね。いいお知らせって?」 『例の偽札事件、調べてるだろ』 本部長はなんでもないことのように言った。深刻な話や、腹をすえてなにか伝えるときの、あたしと本部長のあいだのルールだ。あたしも軽い感じで「調べてるわ、ずっとね」と言った。 「無駄になるかもしれないけど、これまでになく真剣に……っていったら前の任務に失礼ね。でも、しっかり調べてるわ」 『無駄にはならないよ、まりな君』 本部長の声は、相変わらず軽い。死語でいうならC調ってとこ。 あたしが黙っていると、本部長は『そういうわけで、すぐ分室のほうに出勤してくれたまえ』と言った。 「そういうわけって?」 『決まってるじゃないか』 本部長は、少し低い声で、言った。 『公安六課に、正式に捜査依頼がきた。極秘でね。和D−53号事件は、本日から君の事件になる』 <to be continued……> |