The Beginning EVE まりな編 第七話 199X.4.17 ときどきにわか雨 某所 警視庁公安部分室 |
「まず、銭丸事件のことを思い出してくれ」 くる途中にニアミスしたにわか雨の雨粒が、窓に数滴残っている。人気がなく、いつもより薄暗く寒々しい感じのする警視庁公安部公安六課の分室。 いつになく真面目な甲野本部長の発言に、あたしはほんの一瞬、キョトンとした。 次の瞬間には、ある程度理解し、顎をぎゅっと引き下げて頷く。 以前、関わったものの、公安部が途中から閉め出され、真相に触れることはなかったあの事件。銭丸元与党副総裁を検察が逮捕まで追い込んだ、いわゆる『ゼネコン事件』。 ここで本部長が思い出せというのなら……新しくあたしのヤマとなった和D−53号事件のために呼び出しておいて、いきなりその話題を振るということは……答えは一つだ。 二つの事件は、無関係ではないのだ。おそらく、目に見えない部分でつながっている。 あたしは頭の中のコンピュータを検索して、ゼネコン事件のデータを呼び出した。「オーケー、本部長。思い出したわ」と言うと、本部長はニヤリと笑った。 「さて、まりな君はゼネコン事件で、新米エージェントとは思えないほどの働きを見せた。真相に迫りすぎたので、公安六課全体があの件から閉め出されてしまった」 「……それも思い出したわ」 悔しさも蘇ってきて、あたしはあわてて、その気分に飲まれまいと大きく首を振る。デスクに腰掛けてハイヒールを脱ぎ、ペディキュアの出来を点検する。 本部長があたしの長い足を、眩しそうに見た。「大手ゼネコン各社から、副総裁に流れた多額の闇献金。公安六課が閉め出されたとき、ぼくは思った。てことは、この事件が明るみになることはないだろうってね。闇から闇へ真相は葬られ、誰も罰せられない」 「あたしもそう思ったわ」 スモーキーブルーのペディキュアの見事な光沢にみとれながら、あたしは頷いた。 「だから、先月になって銭丸元副総裁が逮捕されたときには、ビックラこいたわ。真相があれだけ明るみになるなんて思いもよらなかった。満足はしたけど、 すっきりしたとはいえなかった。だったらなぜ、あたしは閉め出されたの? なんのために公安六課を捜査陣から切り離したのか……」 沈黙になった。本部長は立ち上がり、ユニマットの黒い容器になみなみと注いだコーヒーを持ってきた。 「はい。君の口に合うかはわからないけどね」 「サンキュ。あたし、コーヒーにはうるさくないの。あったかくてたっぷりあれば、それで十分」 「そっか。まりな君がうるさいのは、紅茶だったな」 本部長は頷き、しばらく、ズズズ……とコーヒーをすすっていた。ポケットに手を突っ込み、窓の外を見ている。 昼休みになったようで、外からは、セントラルアベニュー の中心街にランチに出かけるOLたちの話し声が聞こえてくる。パスタにしようだの、たまには和食がいいだの……雨がやんで光が差し始めたせいか、どの声も明るい。 ふいに閃いた。あたしはコーヒーをこぼしそうになって、あわててデスクにカップを置いた。 「…………わかったわ、本部長!」 「気づいた? 君にしては遅いね」 本部長はププッと笑った。あたしは呆然として、何度か口をパクパクとさせた。 つまり…………そうよ、そうなんだ。 「銭丸逮捕が、ゼネコン事件の真相じゃなかったのね。あれは逆に目くらましで、真相は別にある。だから、あたしは閉め出されたんだわ!」 本部長は真面目な顔になり、窓から離れてデスクについた。あたしも自分のデスクから飛び降りてハイヒールを履き、本部長の前に立つ。 「その通りだ」 本部長は短く言った。 「政府は、銭丸元副総裁が『企業各社から闇献金を受け取った』ことでのみ、裁くことで終わらせようとしている。だが、真相はもっと深い」 窓の外で、中心街に向かってはけていく会社員たちの群れが見えた。その中で一人、四十がらみのちょびヒゲを生やした男が、振り返ってこちらを見上げていた。 川の真ん中の石のように、男だけが人波の流れの中、動かない。あたしを見ているように思えて、あたしはとまどった。こちらが視線に気づくと、男はクルリときびすを返し、早足で立ち去っていった。 誰だろう……? 見たことのない男だ。 本部長は、重々しく、引き出しから分厚いファイルを取り出した。ちょっと迷うように手を止めてから、思い切ってあたしに差し出す。 「銭丸事件の真相だ。ここで目を通してくれ。今日中にだ。絶対に、この分室から持ち出さないように。その後で、和D−53号事件について話し合おう」 本部長は、無人の分室にあたしを置いていこうとする。あたしは、とつぜん降ってわいたように手元に届いた、一度は謎のまま放置された事件のファイルに、うれしさととまどいを感じて、立ちつくす。 「本部長」 思わず呼び止めた。 「どうしてあたしなの。この事件……」 本部長は振り返らなかった。そのまま、短く言う。 「贋幣班からの推薦だ。……あいつだよ」 「あいつ?」 出ていきながら、言う。 「安田刑事が、君を推した。君にやらせるべきだ、とね」 あたしの手から力が抜けて、ファイルが、滑るようにゆっくりとデスクの上に落下した。 銭丸事件の真相は、あたしを打ちのめした。 あれは、企業がらみの闇献金事件なんかじゃなかった。 初めはそうだった。だが、公安を使って銭丸副総裁に迫るうち、政府は、とんでもないことに気づいた。 早い話……銭丸副総裁は、スパイだったのだ。 そんな人物が、なぜ与党の副総裁にまで上り詰めることができたのか……? 摩訶不思議としかいいようがない。よほどの手腕と、神に愛されているとしかいいようがないほどの運。その両方をもった、幸福な人間だったに違いない。 銭丸福総裁は北朝鮮工作員だった。 それに気づいた政府は、文字通りひっくり返った。なにもかも北に筒抜け。そういうことだから。 北朝鮮は、銭丸を使って外貨獲得を狙っていた。そのための大規模な偽札工場が平壌市ウンチョン地区に作られ、偽米ドル札、偽一万円札などを製造していた。 これには、偽札を“洗い”本物の札束と取り替えるためのルートが必要だ。 それが、銭丸だった。 偽札はウンチョン区のピョンソン商標工場と呼ばれる工場と、日本国内にある極秘施設の二カ所で製造されていた。それが銭丸のもとに集められ、ゼネコン各社を利用して洗われた。 あたしは任務遂行の折り、知らずこの真相にかなりのところまで近づいていたらしい。一瞬先に気づいた政府がストップをかけ、あたしはヒョイとつままれてはじき出された。 銭丸は、単なる「賄賂をもらっていた元政治家」として逮捕され、社会的に葬り去られた。国内外の混乱を怖れてのことだ。 いま、銭丸事件の真相に迫っていると新聞等に書かれている検察も、あたしと同じで、どこかでストップをかけられ、終わるだろう。このファイルに記されたことは、闇から闇へ……消えていくはずだ。 だからって……。 あたしは唇を噛んだ。だからって、真相を公表できなくたって、最後まで関わりたかったのに。任務を遂行したかったのに。 悔しさややりきれなさがこみ上げてきて、あたしは座ったまま、足を振り上げてハイヒールをドアのほうに放り投げた。 コツン、と音がして、ドアに当たったハイヒールが、床に転がる。 本部長が顔を出して「……呼んだ?」と訊いた。 「うーん、呼んだような、呼んでないような」 「それ、目を通した?」 「…………通したわ」 本部長が入ってきた。あたしは肩をすくめ、「だいたいわかったわ」と言った。 「じゃ、和D−53号事件のことを話そう」 「それも、推測できたわ。多分こういうことね」 あたしはケンケンしてドアまで行き、ハイヒールを履き直して、戻ってきた。 本部長は中心街まで行ってきたらしい。最近人気のパン屋の紙袋を掲げてみせて「クロワッサン。しかも焼きたて」と言った。 ほかほかのパンにかぶりつきながら、あたしは言った。 「つまり……もご、和D−53号と同じ製造方法の、北朝鮮製の偽札は、とっくに日本国内に出回っている、と」 「そう」 「それは突き詰めると外交問題なので、公安はノータッチ。政府っていうか……あっちの」 あたしは顎で、霞ヶ関がある方角を指し示してみせた。 「外務省の方々に、お任せすると」 「そういうこと」 「で、あたしが追うのは……」 クロワッサンの残りを飲み込む。 「ネズミ、ね」と言うと、本部長は頷き、自分もムシャムシャとパンを食べ始めた。 「その通り」 「おそらく、どこからかその工場のことが漏れ……もしくは、内部の人間が裏切り、今回の和D−53号事件を起こしたんだわ。技術力と資金は、組織的なもの。でも、犯人は単独犯。となれば、それしか考えられない」 「見事だね。いうことないよ」 「単独犯だけに技術力に差が出て、発覚しやすい、完成度の低い偽札が出回り、騒ぎになった。はやく犯人を捕らえておとなしくさせないと、騒ぎが大きくな れば真相が……北朝鮮のことや銭丸のことまで発覚してしまう恐れもある。政府はそれを懸念しているってわけね」 本部長は頷いた。 「そのネズミは、何者か。どこからきたのか。どうやって工場のことを知ったのか。いまどこにいて、次に何をしようとしているのか。それがわからなければ、政府の方々は安心して夜も眠れない。そうなれば……」 窓の外で、またにわか雨が降り始めた。バラバラバラ、と降っては、勢いをなくし、やむ。朝からその繰り返しだ。 本部長は続けた。 「法条まり捜査官こそ、適任だ。銭丸事件にも肉薄したほどの実力を持ち、今回の和D−53号事件にも、心ならずも関わっている。…………安田刑事の推薦に、誰も異を唱える隙はなかったらしい。それで、こうなった」 あたしは唇をとがらせ、天井を仰ぎ見た。 安田があたしを推薦した、か。 よし、見せてやろうじゃないの。この法条まりなサマの実力を。 あたしは頷いて、立ち上がった。 「あたし、やるわ」 短く言うと、本部長はちょっと黙って、それから顔を上げ、無理に笑ってみせた。 分室を出ようとすると、「まりな君」と呼び止められた。振り向くと、本部長が片手を上げていた。 「グッド・ラック」 地下鉄駅への階段を降りようとすると、ふと視線を感じた。 チラリと顔を上げると、ちょびヒゲを生やした男が、こちらを見ていた。 通りすがりのように見えるけど、妙に気になった。目をそらしながら階段を足早におり、自動改札をすり抜けたところで、気がついた。 さっきの男だ。分室の窓を見上げて、あたしを観察していた男。 …………誰なのかしら? 地下鉄に乗り、途中で乗り換えて、四十分後にはサン・マンションの前に着いていた。昼間だとはいえ、ここで襲われたこと、刺された女性が死んだことを考えると、あまりいい気分にはなれない。 あの男。あたしを襲った黒服の不気味な男のことを思い出した。あのときの腹の痛み。首に回された鋼鉄のような腕。自分の命が、ヤツに百パーセント握られていると理解したときの、あの悲しみ。恐怖。怒り。 それから、あの日……サケマス漁船の大捕物もあったんだ、と思い出した。長い日だった。そうだ、あの日……。 漁船の中で、ふいにあたしを背後から襲った男。 あの男も、プロだ。 同じ人間なんだろうか。漁船の男と、ここに現れた男。でも、なんであたしを? あたしがなにを握っているというの? わざわざ探し出して襲うほどの、何を? サン・マンションのガラスドアから中に入り、エレベーターの前に立ったとき、ふいに閃いた。 今日はあたし、すごく冴えてる。 わかった! もしかして、もしかすると……。 あたしはエレベーターの▲ボタンを、乱暴に何回も押した。十五階辺りで止まっているので、頭に来て、ボタンに膝蹴りをくらわしてしまった。あせる。気がはやる。きっとそうだって自信がある。だから……! エレベーターに乗り込み、自分の階のボタンをまたもや膝で押す。飛び出して、ドアの前で足踏みしながら鍵を探し出し、開けた。 ハイヒールをけっ飛ばすように脱ぎ、まっすぐにクローゼットに向かう。 ………………。 あった。 あたしは、あの朝着ていたジャンプスーツを取り出した。クリーニングに出そうとしていたけれど、その夜から緊急入院したのでそのままだった。 スーツの左尻辺りに、べっとりと“それ”がついていた。 あの男に襲われたとき、床に流れていたなにかに滑って、転んだのだ。それで、お尻にべったりつけてしまった。 あたしは、乾いてツルツルになってしまっているそれを、そっと顔に近づけ、かいだ。真っ黒な大きな染みは、たしかに、その匂いがした。 インク! インクの匂いだ! ビンゴ! <to be continued……> |