The Beginning EVE
まりな編 第八話

199X.4.18 肌寒い朝
霞ヶ関中心部の人気のない歩道


 どこからか丸めた紙が落っこちてきた。あたしの頭にポコンと当たって、歩道に落ちる。
 間の抜けた沈黙の後、あたしは顔を上げた。報告義務のため訪れた警視庁のビルの前。新館五階の角の大きな窓から、誰か手を振っている。
  科警研の田辺君だ。あたしは手を振り返した。向こうがおいでおいでをしているので、あたしは頷いて、警視庁の新館のビルに入っていった。
 「身分証を」
 若い警官が立ちふさがる。エージェントの証明書を顔の前に掲げると、警官は「失礼しました」と敬礼し、あたしを通した。マイクロミニのスカートから伸びる足を横目で見て、聞こえないぐらいのギリギリのボリュームで口笛を吹く。
 あたしは振り返って「不謹慎よ」と言った。
 「はっ、失礼しました」
 「でも、あなたのヒゲもなかなかよ」
 「はっ……!」
 固くなっている警官にほくそ笑みながら、あたしはビルの中に駆け込んだ。男の子をからかってる場合じゃないんだけどね。なにしろここは……。
 警視庁科学警察研究所。田辺君があたしを呼ぶってことは、つまり、例のヤツの結果が出たってことなんだから。


 「一服しに、廊下に出たんだけどね。外を見てたらすぐわかったよ、君だって」
 田辺君は長髪をかきあげながら言った。
 「見事な足が歩いてたからさ。あ、法条みっけ、と思って」
 「ありがと。今日は足のおかげでやたらモテるわ」
 「そうだろうね。でも寒くない?」
 あたしは、田辺君が出してくれたほうじ茶をズズズッとすすった。肩をすくめて「寒いわ。でもどうしてもこれが履きたくてさ、今日は」と言った。
 「女心の不思議だね」
 「甲野本部長に言わせると、あたしはマゾらしいわ。寒い日にソフトクリームを食べたがるし、ミニスカ履きたがるし」
 「そのうえ冷たい男にしがみつく、と」
 ほうじ茶をブッと吹き出した。お茶まみれになった顔に、田辺君がぞうきんを放り投げてきた。仕方なくそれで顔を拭く。
 「本部長、口が軽いわね」
 「さっき分室に電話したんだよ。君を呼ぼうと思って。そしたら君はいなくて、寂しげなご隠居の声が……。君が恋愛中だと、あのおじさんは元気ないよね。法条のこと好きなんじゃないの」
 「やだわ、そーなのかしら」
 顔を見合わせて、同時に笑い出す。久しぶりに屈託なく笑った気がした。彼のオカゲだ。
 田辺君はあたしの同期で、警視庁科学警察研究所 ……略して科警研に勤務する筋金入りの理系男だ。長髪に銀縁の眼鏡、痩せた躰に白衣。いまにも倒れそうなか弱い外見に似合わず剛胆な性格で、あたしの跳 ねっ返りぶりを楽しんで、やりすぎて叱責されたときには相談に乗ってくれたりする。頼もしい男友達だ。
 狭苦しい研究室の中をなにやら忙しく歩き回りながら「また任務を抱えて大わらわなんだって? 確か休暇を取るって言ってたような気がするけど」と言う。 「そのはずだったの。でも、なぜかこうなっちゃった」と答えると、田辺君はビーカーやフラスコの向こうからチラッと顔を出して「仕事好きだね。仕事が好き な人間はマゾなんだよね」と言った。
 「うーむ、そうなのかしら」
 「さぁね。いま思いついて言っただけ。それより、コレ見る?」
 微妙に、真剣なトーンの声に変わる。あたしも顔を引き締め、立ち上がって田辺君に近づいた。
 「見せて」
 「ほら…………」
 二本の試験管をあたしの目前にかざしてみせる。それには黒い液体がそれぞれ入っていて、肉眼ではその違いはわからない。
 「こっちが、例の和D−53号事件に使われたインクと同じもの。こっちが、君のジャンプスーツから検出されたもの」
 「どうなの、田辺君」
 「ビンゴ! ウノ! もしくはリーチ! ってとこだよ、法条。つまり……大当たりだ」
 田辺君はニヤッと笑った。銀縁眼鏡がずり落ちる。
 試験管を置いて、はやる気持ちを抑えるように一息つき、部屋の隅のデスクからデータを印刷した細長い紙を取り、あたしの目前に広げてみせる。
 「酸化重合型磁気インク。酸化鉄の精製度、磁気量ともピッタリ一致する。君がサケマス漁船の中で見た黒い水たまりは、和D−53号を印刷するために日本に持ち込まれた、特殊磁気インクが漏れたものだったんだ!」


 パチンコでフィーバーしたときみたいに、あたしは俄然忙しくなった。なにしろ、蛇頭による中国人サケマス漁船密入国事件と、ゼネコン事件、和D−53号 事件の三つともに関わっているのは、いまのところあたしだけなのだ。もう、上層部も問題児だのなんだのとは言ってられなくなったらしい。あたしはその日の うちに、警視庁上層部、追加で動員された公安部のメンバー、贋幣班の刑事たちにすべての事件について説明し、自分が持っているデータを可能な限り放出し た。
 贋幣班のヤツらは、あたしの説明に苦い顔をしていた。病院にやってきて騒いでいたスーツの男は「法条そーさかん」を連発し、ことあるごとに「安田があなたを推薦したようだが……」と当てこするように繰り返す。
 当の安田は欠席だった。今日は朝から、なにか嗅ぎつけたことがあって単独捜査に出ているらしい。「安田は一匹狼だから。一人で狩りをするし、死ぬときも 一人」憎々しげにスーツの男が言った。あたしは笑ってしまった。よくよく、この人は一匹狼タイプとそりが合わないらしい。
 代わりに、上層部から極秘資料に目を通す権限を与えられた。ゼネコン事件の後、政府が国内外の混乱を怖れて封印したデータだ。
 北朝鮮の国家規模による偽札製造工場について。
 亡命者からの情報によると、平壌市ウンチョン区の通貨発券機関、ピョンソン商標工場で、八十年代後半から本格的に偽一万円札、 偽米ドル札 の製造が始まったらしい。千人あまりの従業員は秘密を守る代わりに特別扱いを受け、カラーテレビなども支給されている。工場内のアパートで生活し、外には出られない。社会安全部一個中隊が厳重に警備し、外部との接触は一切ない。
 美大の卒業者、印刷技術のある人間が中心だが、未確認事項として、工場の重要な地位に日本人が一人いたという。男はナカハラと名乗っていた。日本で印刷 関係の仕事をしているとき、北朝鮮に連れてこられ、そのまま工場にいるとか……確かなことはわからないが、男は北朝鮮では製造されていない高級ブランドの 服を数着持っており、大事に着ていたらしい。また、発音にも日本訛りがあり、回りが望めば、日本の歌なども歌ってきかせることもあった。
 男は冷酷な性質だったという。使えない人間はどんどん切り捨てていく。秘密を知っている従業員が、クビになったからといって無事に外に出してもらえるわ けがない。従業員たちはナカハラの性質のもつ魅力と、冷酷さへの恐怖の両方を感じていたという。ナカハラはカリスマ性をもつ指導者として君臨していたの だ。
 だが、今年の年明けにとつぜん姿を消した。
 北朝鮮政府は、秘密を知るナカハラを総力を挙げて捜索した。だが、みつからなかった。
 中国に渡ったという情報もあったが、確認は取れていないらしい。
 以上が、新しく上層部からもたらされた情報だった。どうもまだあるような……小出しにされている感はあるけれど、ぜいたくは言っていられない。あたしは これを元にまた作業を始めた。まず、ナカハラという名の印刷に従事していた男、行方不明になった男がいないかを確認する。同時に、印刷機などの準備のある 施設を徹底的に洗い出す。もしこのナカハラが、中国を通じて日本に密入国したとして、持ってこれたのは磁気インクと偽札のデータだけだったはず。日本国内 のどこかで印刷したに違いない。
 夜が更け、山のような資料をタクシーに放り込んで帰宅した。今度はコンビニエンスストアに寄らず、家の前につけてもらう。部屋に戻ってベッドの上に資料をばらまき、まずはシャワーを浴びた。静かなジャズを選んでCDをかける。
 床にあぐらをかき、冷蔵庫から出したビールをプシュッと開ける。ゴクッと一口。
 「ぷはぁ〜、あぁー、働いた」
 思わず独り言。予想外に実感がこもったしみじみした声だったので、自分で笑ってしまった。
 田辺君に指摘されたとおり、考えてみたら、あたしはいま休暇中だったんだ。それなのに自分から事件に首突っ込んで、関わったあげくエージェントとして指名されて、喜んでる。すごく生き甲斐を感じてがんばるわよって思ってる。
 仕事人間、法条まりな。でも、そういう自分が嫌いじゃない。そう思えるのは、安田が言った(五年後の君は並ぶもののない優秀なエージェントになっている)という言葉のおかげでもあるかもしれない。
 この事件を追ううち、未来が信じられるようになってきた。袋小路にいるんじゃなく、未来につながる確かな道を、一歩一歩進んでいるんだって思えるようになってきた。
 エージェントとして、これからもやっていこうと思える。
 半分ほど空になったビールの缶を置いて、冷蔵庫からチーズを取り出した。本格的に飲んじゃおうと思い始めたらしい。もう一缶ビールを出して、床に置く。
 電話が鳴った。手を伸ばして「はろはろ〜」と出る。
 「こちら淡谷のり子。うやゃゃゃわゃゃゃや〜…………」
 『ぼくだよ』
 思わず舌を噛んでしまった。てっきり本部長かと……。
 「あ、久しぶり」
 『そう久しぶりでもないよ。ずいぶん会ってない気がしてる?』
 「う……ん、そうかも」
 安田の声に、急激に酔いが回った気がして、あたしは何度か瞬きをした。
 「なにか単独で捜査してるのよね、安田さん?」
 『いや』
 あたしはとまどった。贋幣班のヤツの話だと、なにかやり始めてるらしいけど……? あたしには言わないってこと?
 『いま、どうなってる?』
 「贋幣班の人たちには説明したわ。あなたのところには連絡言ってないの」
 『…………』
 沈黙が流れる。そういうこと、か……。あたしは簡単に事件の経過を話した。電話の向こうで安田が『君の睨んだ通りだったわけだ』と呟いた。
 『組織的、政治的な何か。単独犯じゃない。そう主張していた。まっすぐで、確信に満ちていた』
 「えぇ、エージェントの勘で……そう思ったの」
 『やっぱり、ぼくの睨んだ通りだ。君は優秀な女だ』
 また沈黙。
 「いまどこ?」
 『さぁね』
 電話が切れた。
 唐突な切れ方だったので、あたしはとまどった。でも、酔いが回ってきてあまり考えられなくなる。
 たった缶ビール一本でこんなに酔うわけない。あたしは、酔ったフリして安田のことを考えまいとしてるのかもしれない。いろいろ悩みたくなくってさ……。ちがうかな?
 上体がぐらっと傾いて、資料を散らかしたベッドの上に倒れ込む。頭の下で資料がくしゃくしゃになる音がする。いかん、酔ってるわ、マジで……。疲れが溜まってるのかもしれない。朝から大変だったものね、今日は…………くぅ……。
 瞼が重くなり、フワフワとしたいい気持ちになって、あたしは、意識をなくす前に手に持っていた二本目の缶ビールを床に置いた。次の瞬間、安心したように、ぷつっと意識が切れて眠りの中におっこちていった。
 重い石が沼に沈むように…………。


 電話が鳴っているのに気づいたのは、それから数時間経ってからだった。
 夢の中に強引に侵入するように、電話のベルが頭の中に響いてきた。あたしはゆっくりと起きあがり、なかなか開かない目に往生しながら受話器を捜した。
 電話の向こうからは、低い、ちょっとゾクリとするような男っぽい声がした。
 聞き覚えのない声だ。


「はろはろ〜」

『法条ってのはあんたか?』

「…………そうよ。あなたは誰?」

<to be continued……>