The Beginning EVE まりな編 第九話 199X.4.18 冷えた夜 都内某所の住宅街 空き家の前 |
シンとした住宅街の一角に、その屋敷はそびえるように建っていた。 黒い巨大な影のように、あたしに向かって覆い被さってくる。なにか……とんでもないことが起こりそうな、胃袋がひっくり返ってしまいそうなことが自分を襲うんじゃないかっていう不安感が、あたしの内で広がっていく。 だけど、今夜のあたしは全然平気だった。以前みたいに、捕り物を控えて神経質になったり、必要以上に肩に力が入ったりはしていない。なんだかすがすがしい気分であたしは屋敷の前に立ち、それから大きく息を吸った。 マイクロミニのスカートに、十センチのハイヒール。両肩にはホルスター。その姿で仁王立ちしたあたしは、まるで戦いの女神みたいだ。……それは言い過ぎ かも。でもそれぐらいの気分で任務遂行に出たっていいじゃないの。今回もあたしは大活躍なんだから。 屋敷の玄関に立ち、ドアに手を伸ばす。意外なことに、ドアには鍵がかかっていなかった。あたしはドアの向こう側に人の気配がないことを確認して、思い切り開け放った。 同時に肩のホルスターから二挺のSIG SAUEL P228を抜き、ドアに半身隠しながら両手で構える。前方に銃口を向けて油断なく目をこらしながら、叫ぶ。 「出てきなさい!」 コトリ、と音。 二階から誰かが降りてくる音がして、玄関につながる長い長い廊下の奥に、人影が現れた。あたしは銃を構えた。 こちらの様子を伺うように、立ち止まり、首だけこちらに向けて立っている。あたしは大声で告げた。 「警視庁公安部公安第六課の法条まりな一級捜査官よ」 「知っている」 低い声だった。 あたしは思わず片手を下げた。肩の力が抜けて、SIG SAUEL P228はダラリと地面に銃口を向ける。 自分の足を撃ち抜いちゃいそうな、脱力。 あたしは口を開き、閉じ、また開いた。 影はゆっくりとこちらに近づいてくる。 「どっ…………」 声がなかなか出ない。 「どうしてここにいるの?」 かすれた声に、近づいてきた人物はクスリと笑った。 外の街灯がその顔を照らす。ずっと会いたかった顔。 「どうしてここに……ねぇ、安田さん」 あたしのかすれ声に、安田は唇の端をもちあげ、微笑した。 安田に言われるままに、あたしはとりあえず屋敷に上がった。誰もいない、広いリビングでソファに座る。 「なにもなくてね、ぼくもついさっききて、物色したんだけど」 捜査で潜入した家で、置いてあったものに手をつけるなんて言語道断だ。でも安田はいっこうに頓着せず、バーカウンターから、封を切っていないスコッチの瓶を取り出して、うれしそうに蓋を開けた。 「氷はないから、ストレートで。グラスは綺麗だよ、奥に閉まってあったから」 「いらないわ、任務遂行中は飲まないことにしてるの」 安田はチラリとあたしを見て、笑った。 自分も飲まないことにしたらしく、瓶とグラスをしまう。 「単独捜査でここまで行きついたんだ。それでこの屋敷に来た。なにもみつけられなかったけどね」 「なにも?」 あたしはソファから立ち上がって、何度かその回りをウロウロした。 「おかしいわね、この屋敷にいるっていう男性から電話があったのよ。囚われている女性と、怪我してる刑事がいるって。一瞬、もしかしてあなたかもって 思ったけど、そんなヘマする人じゃないものね。おおかた手柄を急いで先走った若い子が、返り討ちにあって倒れてるんだと思って……」 言いながら首を振る。 「悪戯電話だったのかしら。でも……変ね、それにしては具体的だったわ」 「どんな電話だったの」 真剣な安田の声に、最初から丁寧に説明する。安田は真剣に耳を傾け、聞き終わると「分析した方がいいな。ただの悪戯電話とは思えない。なにか裏がある」と言った。 安田の横顔を、切ない、悲しい、でもどこかに怒りもひとすじ混ざった……なんともいえない複雑な気持ちを持て余しながらみつめた。恋をしているときしか味わわない、甘くて苦い気持ち。一つの気持ちだけじゃない、なんとも説明しがたい気持ち。 でも、次第に怒りの比重が増してきた。 安田さん、どうして…………どうして、あたしを騙したの? どこまでが本当だったのよ。 あたしは甘ったるい声になるよう努力しながら、つとめて自然に「科警研の田辺君が、あなたのこと知ってるって言ってたわ」と言った。 「あぁ、アイツか」 「あなたの同期でしょ」 安田は答えなかった。 「違う?」 「なんでそんなことを訊く?」 「答えはノー。彼はあたしの同期。まだ二十代よ。答えられなかったわね、安田さん」 安田はゆっくりと顔を上げた。 冷たい、表情のない目。 「訊きたいことはもう一つあるわ。どうしてさっきから、あたしに背中を向けないの? この屋敷に入ってから一度も、あなたは油断してない。逆に、あたしが俯いたり背中を向けたり……気を抜くチャンスを待っているわね」 沈黙。 安田は唇の右端を少し引きつらせるようにして上げた。頬の筋肉が引きつる。 笑ったのだ。 「クッ………………クッ、クククッ」 「よくも騙したわね」 あたしは両肩のホルスターからSIG SAUEL P228を引き抜いた。安田の眉間にぴったりと狙いを定める。 泣いちゃダメだ。まだ泣いちゃダメ。涙で狙いを外してしまう。 「あなたに…………偽者のあなたに惚れてる女を見てるのは、楽しかった?…………中原さん」 安田刑事…………いや、電話の男性が語った、この和D−53号事件の犯人、北朝鮮と日本政府を恐慌状態に陥れた小さな“ネズミ”、中原光嗣は、唇の両端を切れそうなほど持ち上げ、壮絶な笑い方をした。 「あぁ」 低い低い声。地獄の底に響くような、底なしに暗い男の声。 「楽しかったよ」 あたしのSIG SAUEL P228が火を噴いた。 中原光嗣はすばやく上体をかがめ、弾を避けた。とんでもない反射神経だ。 殺してやる。 あたしは心の中で叫んだ。 殺してやる。 殺してやるわ。 あたしを愛してた? 息の根を止めてやる。後悔させてやる。 愛してたのはほんと? 殺して……やるんだから。 あたしは愛してた。愛してた。愛してた。 あたしは泣きながら、メチャクチャに拳銃をぶっ放した。プロのエージェントとは思えない。涙で狙いは外れて、廊下の壁や花瓶にぶち当たり、派手な破壊音を立てる。両手に持ったSIG SAUEL P228は順番もなにもなく火を噴き、まるでゲーセンでシューティングゲームに興じてる中学生みたいな有様だった。 どこよ、どこにいるの。 中原は。いや……あたしが好きだった安田は。 どこよ。 二階に駆け上がり、ミニスカを全開にして足でドアを蹴破る。途端に反対側の部屋から中原が飛び出してきて、あたしを押し倒し、手首を掴んで床に打ちつけ、拳銃を手放させようとする。 力の差があるのはわかっていた。あのとき、サケマス漁船の中で対峙したとき。サン・マンションの前で格闘したとき。黒服の男、中原とあたしには、圧倒的な力の差があった。いつだって、すぐに倒されてしまう可能性があった。 でもいま、あたしは銃を持ってる。中原もこれを怖れてる。あたしは絶対に離すもんかと握力に自分の持ちうる限りの根性を投入した。なにしろこの家には、 囚われている女性と負傷した刑事……数人がなすすべもなくあたしの助けを待ってる。やられるわけにいかないわ……エージェントとしての自覚と、愛してた男 に裏切られた痛みが、あたしの内部で交錯する。のしかかる男に膝蹴りをくらわす。効かない。そうとう腹を鍛えているらしい。あたしは何度も何度も蹴り出し た。 左手の銃があたしの手を離れて、廊下を数十センチ滑っていった。あたしが呻くと同時に、中原が手を伸ばし、それを取る。その隙に起きあがって肘で相手の 肩を打とうとしたあたしを、振り返りざま中原の肘が襲った。頬骨を打たれてその場にもんどりうって倒れる。 そのあたしの前に立ちふさがるように、中原が見下ろした。銃を構えている。その冷たい瞳を見て、彼があたしを片づけることにまったく躊躇していないことを悟った。 悲しみが躰を突き抜けていった。あたしはいまこの瞬間、なにかをなくした。 あたしは次の瞬間、冷酷なエージェントに戻った。ダラリと下げていた右手の角度を変え、中原に向かって銃口を引く。 心臓を狙ったそれはずれ、下腹部に命中した。中原がゆっくりとこちらに倒れてくる。それでもまだ、あたしを撃とうと銃に気持ちを残しているのがわかっ た。わかったけれど、あたしは思わず両手を開いて、倒れてくる中原の躰を受け止めた。また“女”に戻ったのだ。 力が抜けていくその躰は、とても重く、熱い。 「…………あたしを愛してた?」 みっともないことを呟いてしまった。かすれ声。表でなにやら物音がし始めている。 あたしの胸の中で、中原がクッと呻いた。笑ったのかもしれない。そうは考えたくないけど。 集まった警官隊が一斉に突入してくる音がする。 胸の中で中原がモゾモゾと動く。視線を下げたあたしは、中原が手にした銃の銃口をあたしの胸に当てているのがわかった。引き金を引こうとする指に力が入らず、痙攣している。 「あぶな……いっ」 しわがれた声がした。顔を上げると、負傷した足を引きずりながら、奥の部屋から男が這いずり出てきていた。土気色の顔に、汗の滴る口ひげ。囚われていた刑事だ。手にした拳銃をこちらに向け、必死で狙いを定めている。 なにが起こるのかわかった。あたしは目を見開く。 男は、中原のこめかみに狙いを定め、そして……引き金を引いた。 ドキューン………………。 空き家に、銃声が、響く。 あたしは、膝の上にどさりと崩れ落ちてくる彼の重みを全身で感じた……。 <to be continued……> |