The Beginning EVE
まりな編 第十話

199X.4.19 蒸し暑い真夏の午後
某所 公安部公安六課分室


 「……法条みっけ」
 ガランとしたタイル張りのフロア。そこかしこに段ボールや梱包されたスライド棚が積まれた雑然とした公安六課分室にポツンと一人立っていると、ふいに声がした。
 振り返ると、棚の向こうから、長髪の男性がピョコンと顔を出した。
 科警研の田辺君だ。
 言葉を捜すようにちょっとのあいだ俯く。それから、意を決したように明るく話しかけてきた。
 「行っちゃう前に、ちょっと顔出そうと思ってさ」
 「やーね」
 あたしは笑い出した。
 「そんな、地方に飛ばされるみたいな言い方しないでよ」
 つられて田辺君も笑って、ぽりぽりと頭をかいた。
 「元気そうで……よかったよ。ははは」
 歯切れが悪い。あたしはまた笑って、
「すっきりしたわ。一から出直すつもりで頑張る。春だしね」
 と言った。
 田辺君もにこっとして、近づいてくる。
 午前中のセントラルアベニューは、静かだ。埃を出すために開け放された分室の窓の外も、時折、風がびゅうっと吹いたり車が軽くクラクションを鳴らすぐらい。田辺君の革靴を履いた足が立てるコツコツという音がやたら響く。
 風が窓ガラスを揺らして、また止まる。
 「例のご隠居がついに公安を飛び出して、優秀なエージェントをごく数人引き連れて独立するって訊いてね。メンバーは非公開だってことだったけど、当然法条も入ってるはずだ。いや……もっといえば、法条って人材を有効に使うための独立じゃないかって説も飛び交ってるよ」
 「それは言い過ぎ。本部長にもいろいろ考えがあるのよ。ま、あたしと本部長は、本質的に似てるのよ。だからあたしも、彼についていくことにしたの」
 「二人とも筋金入りの問題児だからな。優秀で、ムチャクチャ」
 「ふふふ。そこは変わらないわ、内閣調査室に移動しても」
 笑みを浮かべて言うと、田辺君は安心したように頷いた。なんのかんのといって、心配で様子を見にきたらしい。
 「午後から運送が始まるのよ。それまで少し時間あるし……」
 あたしは肩をすくめた。
 「お茶でも飲む? 中心街まで行くと行きつけの喫茶店があるの」
 田辺君はあたしを見て、トレードマークの長髪をかきあげ、頷いた。


 セントラルアベニューの中心街にある小さな紅茶専門店は、最近のあたしのお気に入りだ。昔から紅茶には目がなかったし、理系男の田辺君なら、細かい配合や温度にこだわるこういう店を喜ぶだろうと思ったのだ。
 案の定、プラモデルをみつけて目を輝かせる子供みたいに、田辺君は夢中になってカウンターの中を覗き込んでいる。
 「しかし……」
 どこか上の空であたしに言う。
 「新しい場所はさ、ずいぶん遠いよね。ここから地下鉄を乗り換えて、駅からも歩いて。とてもあんなところに、公安の特務を受け持つ公的機関があるとは思えないだろうね」
 「セキュリティだけは万全よ」
 田辺君はこちらを見た。あたしはちょっと考えて、言葉を選びながら言った。
 「内閣調査室は、エージェントにある程度自由な行動を許して、請け負った任務を責任持って最後まで遂行するようにシステムが組まれているの。そのぶん、公安では扱いきれない事件が回ってくるから、任務自体は激務になるわ」
 「ほら、やっぱり」
 「えっ?」
 「内閣調査室は、法条のためにつくられたようなものだよ。君が公安六課に不満をもっていた部分がすべて改善されているのがその証拠」
 「…………本部長も同じ不満を持ってたんじゃないかしら。とにかく、あたしは精一杯やるわ、新しい場所で。それだけ」
 「そりゃ、法条は無敵だからな。そのことに関してはまったく心配してないよ。………………ところで」
 田辺君はなんでもないことのように言った。
 「立ち直った、あれから?」
 「………………」
 頼んだ紅茶が運ばれてくる。ニルギリとアッサム・ティー。キリリと冷やしたアイスティーだ。
 あたしはゆっくりとアイスティーを引き寄せ、ストローでかき回した。
 「大丈夫よ。もうだいぶ経ったわ」
 「また男を信じられる? 恋愛しようって思える?」
 「それは…………だって」
 あたしは言葉に詰まった。
 「なんにもなかったわけじゃないわ。一年近く経ったし、あたしはこの通り」
 田辺君が次の言葉を引き取る。
 「スーパービューティーの法条まりなさんだし?」
 あたしはプッと吹き出した。
 「そこまで言ってないわ。……思ってるけど」
 「その意気だ」
 アイスティーのグラスに、ぽとりと涙が落ちた。あたしはあわてる。田辺君は気づかないふりをして自分のグラスにミルクを注いでいる。
 あの和D−53号事件のあった春から、一年が過ぎていた。そのあいだに、田辺君は科警研の副主任に出世し、弥生は一度解消した同棲を再開し、あたしは甲 野本部長と共に公安部の分室を飛び出す手はずを整えた。はからずも、あたしはあの男が言ったとおり、優秀なエージェントになっていた。幾つかの困難な任務 を片づけ、達成率99.9999……%という驚異的な数字をはじき出している。
 でも…………あの夜。あの四月十八日の夜、あたしの中で死んだ一つの感情は、二度ともとの体温を取り戻すことがない。
 恋をしても、もう溺れることはない。自分の膝の上で愛していた男が息絶えたあの夜、あたしの中でもなにかが死んだと思う。少女のように瑞々しく、荒々しい若さをももったなにか。すごく綺麗で、同時にすごく醜い、矛盾した激しい感情。
 そういった、誰もが味わう恋情を、あたしはなくしてしまった。いつもどこかがキーンと冷え切っているみたいだ。
 「あの男は、いったいなんだったんだ」
 田辺君がぼそっと呟いた。
 あたしはストローをもてあそびながら答えた。
 「北朝鮮に拉致された日本人。向こうの印刷工場で働いていたけれど、なんらかの意図があって逃げ出し、日本にやってきた。閉鎖されている実家の工場で偽 札を印刷し、ばらまいた。彼の目的がなんだったのか……。バブル崩壊に巻き込まれて倒産寸前だった実家を建て直すためだとか、妹の学費だとか、北への復讐 のための一種のテロだとか……いろいろ言われたけれど、結局はわからなかったわ。
 真相は発表されなかったし。公には、あの和D−53号事件は迷宮入りしたことになってるの。北朝鮮との外交問題にまで発展してしまう恐れがあるし……極 秘だけど、北で核兵器を開発中だって未確認情報もあるのよ。政府としては刺激したい相手じゃないってわけ。あたしたちも墓まで秘密をもっていくわ。誓約書 に血印まで押させられた」
 「へぇ……そりゃすごいな」
 「それだけの事件だったってことよ……」
 あたしはアイスティーを一気に半分ほど飲んだ。
 喉がカラカラに乾いてくる。あの事件のことを思い出したせいだ。
 「中原光嗣は、サケマス漁船であたしと格闘したとき、顔を見られたと思ったのね。それで自宅の前で待ち伏せ、殺そうとした。でも、通行人のせいで邪魔が 入ったのと、あたしが『誰?』っと訊いたせいで顔なんて見られてないって気づいたのと。その両方で、あたしを生かしておくことにしたの。
 どうせなら情報提供に利用しようって、単独捜査のせいで病室に来なかった贋幣班の刑事、安田功志の名を借りてあたしに近づいた。そしてあたしから捜査状況を聞き出してたってわけ」
 「ひどいヤツだな」
 あたしは答えなかった。
 最後のとき……あの屋敷で格闘になったとき、あたしは馬鹿なことを言った。まだ覚えてる。
(あたしを愛してた?)
 彼は、笑った。
 ゆがんだ、あざ笑うような、悲しむような、あの瞬間の中原の顔。いまでも夢に見る。明け方にびっしょり汗をかいて目覚める。あの顔に何夜、眠りから揺り 起こされたことか。眠るな。まどろむな。おまえは愛されていなかったのだよ、ぼくに愛されていなかったのだよ…………そう責めるように、嘲笑するように、 繰り返し蘇る彼の顔。
 それでもあたしは訊いてしまう。(愛してた?)返事はないとわかっているのに、闇に向かって問うてしまう。
 寂しい、馬鹿な女の、くだらない夜の一幕。
 あたしにはどうしても、安田としてあたしの前に現れた男が、すべて嘘だったとは思えなかった。どこかに一欠片の本当が……あたしとのあいだに通じ合ったなにかが、たしかにあったと思うのだ。
 それは一瞬かもしれない。後は嘘だったかもしれない。でも……。
 安田もあたしも、一匹狼だった。つっぱりながらも、誰かに、わたしはあなたの味方だと言ってもらいたかった。強いけれど、脆いところもあった。
 あたしたちは似た者同志だった。
 その二人のあいだに、よく似た人間だけがもちあう共感の、二人きりでこの世界に対峙しているような強い愛情の一瞬が、確かにあったような気がするのだ。
 あたしの思いこみかもしれない。年月を経て少しずつ、辛すぎる思い出を浄化しようとしているのかもしれない。
 いまとなってはもう、わからない。上質なバーバリーのコートを古びるまで大切に着ていた、贋幣班のはみ出し刑事、安田は、どこにもいない。架空の人物だし、彼を演じていた冷酷なあの男は、死んでしまった。
 あたしがこの手で葬ったのだ。
 任務を請け負ってから一日でのスピード解決ということで、あの事件は警視庁の伝説になった。凄腕エージェント、法条まりなの噂が一人歩きし、しばらくは 往生した。犯人を射殺した本物の安田刑事も、やむを得ない処置だったとあたしが証言したため、特にお咎めは受けなかった。
 第一、中原光嗣は日本にいないはずの人間なのだ。死亡記録も残らなかった。家族にだけひっそりと知らされ、埋葬された。
 いまは新潟の、実家に近い古びたお寺に眠っている。墓参りには行っていない。
 全部終わった。時間は流れていく。あたしだけを残して。
 「いまに…………」
 田辺君がぼそっと言った。
 「ん?」
 「いまに、会えるさ。いい男に。失敗に終わった恋愛はすべて偽物だったんだって、ぼくの学生時代からの女友達が言ってた。こないだ結婚したんだけどね。 彼に会うためにいろいろ失敗したんだ、だから全部良かったんだって。晴れ晴れとした顔で言ってたよ。自分の結婚式の二次会で、ぼくの隣に座って」
 「ふぅー……ん」
 田辺君は沈黙して、それからふっと笑った。
 「ぼくの彼女だったんだ。学生の頃にね。ぼくのほうから彼女をフッた。それは昔の話だけど……たまんなかったよ、そんなこと言われて。女の人ってさっぱりしてるよ。過去は過去。たまんないよ」
 喫茶店のママさんが焼きたてのケーキを出してきたので、思わず指を二本立て、注文する。ウェッジウッドの素敵なお皿にアイスクリームと一緒に盛られて出てきたケーキを差し出すと、田辺君はにっこりした。下戸で甘党なのだ。
 「つまり、ぼくがなにを言いたいかっていうとね。彼女ぐらいさっぱり……きれいさっぱり忘れてほしいんだよ。それで、元気を出してほしい」
 「ありがと、田辺君」
 あたしは、とつぜん自分の恋の話なんか始めた田辺君に、深い感謝を感じながら頷いた。もともと、あんまり自分のことを話す人じゃないし、器用な人でもな い。唐突な昔話だけど、田辺君なりに一生懸命、あたしを送り出す言葉を捜してくれたのかもしれない。  田辺君はぼそぼそと続ける。
 「いつか会えるよ。素敵な人に。あんな辛い、いやな出会いじゃなくて、ほんとに好きになって、君が幸せになれる人が。そういう……そういうおとぎ話を信じていいと思う。女の人は」
 答えようと思ったけれど、気の利いた台詞が浮かばない。あたしは黙って、ただ、ゆったりと微笑した。


 分室に戻ると、甲野本部長と数人のエージェント仲間が、忙しげに荷物を運び出していた。
 「はろはろ〜、本部長」
 本部長は振り返り、片手を上げた。
 「ちょうどよかった。怪力のまりな君」
 「失礼ね。べつに怪力じゃないわよ」
 「上層部からのお達しで、業者を使わず自分たちで荷物を運べってことになったんだ。頼むよ。はいこれ」
 いきなりポンと段ボールを渡されて、あたしは目を白黒させる。
 「おもっ……重たいわね、これ」
 「そりゃまあ、なにしろ、まりな君がダイエット用に買ってきて置きっぱなしにしてたダンベルセットだからねぇ」
 「あ…………そぅ」
 仕方ない。あたしは段ボールを抱えて歩き出しながら、本部長を振り返った。
 「これって、上層部からのいやがらせ? それとも経費削減のため?」
 「両方だよ。ま、表向きは、マル秘の文書もあるから機密保持のためってことだったけどね」
 「あーあ。あたしたちってやっぱ、組織の鼻つまみ者ね」
 天井を仰いで大げさに嘆いてみせると、本部長はゆっくりと顔を引き締め、真面目な表情になった。
 「だが、いつまでもそうじゃないよ。内閣調査室は、公安じゃ扱えない困難な事件を回されて次々解決する、日本政府にとってなくてはならない特務機関にしてみせる。そのための独立だ」
 あたしも顔を引き締め、不敵な笑顔をつくってみせた。
 「もちろんよ。これはけっして都落ちじゃないわ。わかってる」
 本部長はバチッとウインクしてみせた。あたしは微笑して、分室を出た。
 一緒にセントラルアベニューを出ていく仲間たちが、表の大型トラックに次々と荷物を運び入れていた。あたしは彼らとジョークを飛ばしながら荷台にひょいと上がり、どんどん作業を進めた。
 「はい、兄貴。これも頼む」
 「…………しっつれいねぇ。あたしは兄貴じゃないわよ」
 三年前と違って、いまは若い後輩たちもいる。「いや、法条先輩ってそんな感じがして……」と頭をかく男の子に笑いながら作業を続ける。そういえば、昔よ り仲間たちと感情的に対立することが少なくなった。たまには一緒に飲みにいったり、カラオケでヘンな歌をチョイスしてふざけあったりなんてこともある。周 りがあたしを一人前のエージェントと認めてくれるようになったのだろうし……きっとあたしの態度も変わったんだろう。昔のあたしは、馬鹿にしないで、甘く 見ないでって突っ張って、全身をトゲだらけにしたただの若い女の子だった。でもいつのまにか、キャリアとともに自信があたしを少し柔らかくしてくれた。
 これからもあたしは変わっていくんだろう。生きている限り人は変貌し続けるのだ。
 そんなふうに思って、弟分たちと荷物を運び込んでいると、ふと、さっきの田辺君の台詞が耳に蘇った。
(いつか会えるよ。素敵な人に。そういう……そういうおとぎ話を信じていいと思う)
 おとぎ話、ね。
 いまこうして、あたしの仕事には転機が訪れたところだ。新しい場所で仕事を再スタートすることにあたしは喜びと期待を感じてる(小さな挫折感ももちろんあるけどね)。
 じゃ、恋愛は?
 なぜか、ふっと……一年前、安田と恋愛中に描いたビジュアルが思い出されてきた。
 コウノトリが、桃色のハート型をした“恋”を運んでくる。誰の部屋にも、順番に。一人暮らしの子、親元や寮にいる子、ときには結婚している人の家に も……。あのときあたしは、それは避けられない、誰にでも平等に訪れるものなのかもしんないなと思ったのだ。
 また、あたしのあのサン・マンションの部屋にも、コウノトリがやってくる日があるかもしれない。恋をして、喜びや悲しみに身を焦がす日がくるかもしれない。
 いまはまだ心が痛くて、ヒリヒリととても痛くて、そんな説には正直いうと半信半疑だ。でも、あまりにも一生懸命だった、不器用で愛しい田辺君に免じて、とりあえずあたしは…………。


 もう一度、おとぎ話を信じてみようかな、と思った。

<Fin>