The Beginning EVE
小次郎編 第一話

199X.4.9 天気のいい昼下がり
東京都内 桂木探偵事務所


 「おわっ。やっちまった!?」
 オレは何度目かの悲鳴を上げ、頭をかきむしった。
 デスクの衝立の向こうにいた事務員が、腰を浮かしてこちらを覗きこんできた。
 オレが片手を振って「悪い。なんでもないよ」と言うと、ため息をついて「所長代理、その新品のマシン、いきなりブッ壊さないで下さいよ」と呟き、書類の束を持ってどこかに行ってしまった。
 「このオレ様…… 天城小次郎様 が、そんなトロくさいことするかってんだ」
 オレは肩をすくめ、うそぶいた。
 二十坪ほどのスペースにデスクを並べた白いオフィスは、しんと静まり返っていた。オレと、向かい側にいる経理その他を担当する事務員以外、人気はない。
 いま依頼人が訪ねてきたら、あまりにだらけた雰囲気に驚いて出ていっちまうかもな、と思ってオレは一人笑った。
 静まり返ったオフィスに響くのは、空調機器のブーンと鳴る音と、事務員がさらさらとなにか書き込むペンの音。それからありあまる才能をデスクに埋没させている、天才調査員兼所長代理であるオレ、天城小次郎の深い深いため息だけ。
 オレがこの桂木探偵事務所の所長、桂木源三郎 に拾われてここの社員になってから、もう何年も経つ。両親の突然の事故死で自暴自棄になっていたオレを拾い、素質があるからと探偵のライセンスを取らせて くれ、一から基本のノウハウを教えてくれたのだ。もっとも、その素晴らしい“探偵の素質”ってヤツを、ここしばらく、オレは発揮できた試しがない。探偵事 務所なんてところに持ち込まれるのは、ほとんどがつまらない浮気調査や結婚相手の素行調査。根気さえあればオレみたいな天才調査員じゃなくたってできる仕 事だし、だいいち、今朝からオレがやらされているのはな……。
 オレはまた頭をかきむしり、目前にあるオフホワイトをした四角い“箱”を見た。18インチのテレビぐらいの大きさで、モニターからはブーン……とかすか な機械音が流れてくる。これは「パーソナルコンピュータ」という代物だ……。このたび桂木探偵事務所では、OA化を進めるために、とりあえず一台(ってと ころがなんか弱気だ)購入して、迅速なる事務処理と情報交換に使えるか試してみることになったのだ。
 こんなことを考えるのは、桂木所長じゃない。第一、根無し草な生活が染み込んでいるらしい桂木源三郎は、ここ一年ほどこの事務所に顔を見せず、どこか ほっつき歩いている。いま桂木探偵事務所を支えていて、このたびのOA化についても仕切っているのは、気が強いくせにときどき急に脆くて、かと思うと妙に 細かいんでうるさいときもある、あの……。
 「できたか、小次郎」
 背後にある事務所のドアが開いて、その本人が颯爽と入ってきた。足を止めるでもなく、ヒールの音を響かせながら通り過ぎていく。
 オレが肩をすくめると、それが見えていたかのように、その女、桂木弥生 ……桂木源三郎の愛娘で、オレと共に桂木探偵事務所の所長代理を務めており、ついでに言うとオレの彼女だ……は振り返り、ちょっと心配そうに顔を曇らせてみせた。
 きちんとした性格そのままに、よく手入れされたロングヘア。忙しくて美容院に行っていないために、だいぶ長くなって邪魔だと言っていた前髪を、いまも細 い指で何度もかきあげている。顔つきはキリリとして気の強さが窺えるが、肌は陶器のように白くて少女のようにふんわりしている。
 大人のような子供のような、どこかアンバランスな容姿。それが桂木弥生の特徴だった。もちろん、本人はそんなことに気づいていないが。
 「頼りにしてるぞ、おまえ以外、そいつに触れる社員は、いまのところいないんだからな」
 「そりゃ、オレ様にかかればこんなマシンの一つや二つ、使いこなすのは簡単だけどな。この天城小次郎の天才的洞察力と推理力を、こんなことに無駄遣いしていいのかねぇ。こういうことは、あの使えないヒラメ野郎にやらせるのが一番だろ」
 「あいにく、二階堂は調査で出払ってる。とりあえず小次郎は初期設定だけ全部やってくれればいい。後は職員全員に一からコンピュータの扱いを覚えさせるから。これからは情報化が命だからな」
 オレは「へいへい。こんなもの、小次郎様の手にかかれば……」と言いながらデスクに向き直った。
 しかし、とっくに終わった初期設定の作業が終わってからずーっと同じゲームを延々続けているせいで、いい加減あきてきた……。パターの選び方で微妙にな……それに風向きもけっこう重要で……。
 とまぁ、弥生にみつからないように、作業しているふりしてゴルフゲームにうつつを抜かすってのも、意外と大変だ。なにしろ弥生は、妙なところで鋭いからな。あのおやっさんの血を引いてるってことだ。
 にしても、座ってんのにもつくづく飽きたな……。
 吐息をついて前髪をかきあげると、一度入った所長室からファイルの束を持ってまた出てきた弥生が、こちらをチラリと見て、目尻を細めるようにうれしげに微笑した。
 「……なんだよ」
 「なんでもないよ」
 弥生はまた笑った。
 「なぁ」
 「なんだよ」
 「前髪切れよ、小次郎。わたしはおまえの目が好きなんだ。最初に会ったときから、ずっと、な」
 寂しげな子供のような口調になる。
 弥生はいつもこうだった。子供と大人のあいだを風に揺れる振り子のようにいったりきたりする。つきあい始めた頃……まだ高校生だったオレは、そのことに いちいちドギマギしていた。オレがなにか言って傷つけたせいじゃないか? なにかバレたのか? オレのなにが原因で彼女はこんな顔を? ついつっけんどん にしてしまったり、その場しのぎのことを言ってはぬか喜びさせたり……そんなしょうもないことばかりして振り回すくせに、オレの心臓はいつも、彼女の表情 の変化によってせわしなく鼓動を変えていた。
 若かったってことだな。
 大人になっちまった今では、いちいちドキッとしたりしない。弥生はいつもこういう感じなんだと、もうわかっているからだ。それに、余計な心配なんかしなくても、弥生はなんだかんだいいながらも必ずオレについてくる。
 オレは軽く笑って「気が向いたら切るさ」と答えた。
 弥生は頷くと、甘ったるい声を急にひきしめて「ところで」と言った。
 コツコツとヒールの音を響かせて、オレのデスクに近づいてくる。
 「朝から机に縛りつけられて、うんざりしてるんだろう。いいぞ、もう通常業務に戻っても」
 「そうこなくっちゃね。で、依頼は?」
 「どれにする? 香港マフィアに追われている美人女優の警護! ペンタゴンも探している南米で失脚した元政治家が隠した秘宝探し! それと……三十七歳の専業主婦を対象とした浮気調査」
 「うーん。美女を取るんなら女優の警護、しかしいま金欠だしな。金を取るなら秘宝探しだな。迷うところだ……よし、決めた。女優の警護だ!」
 弥生は肩をすくめて「もちろん冗談だ。依頼は今のところ、浮気調査だけだよ」と言った。
 「ガクッ」
 おおげさにがっかりしてみせると、弥生は笑った。「そうクサるな。探偵なんてこんなもんさ。浮気調査にペット捜索。かなわなかった初恋の相手調査。いわ ゆる失せ物探しがほとんどだ。みんな探しているのさ、なくしたモノを。なくした愛。いなくなったペット。もしかしたらあったかもしれない未来」
 オレはふと不審に思って、ん? と片眉を上げた。いつもの弥生とは違う気がする。いや……気にするほどのことでもないかな。多分……。
 オレは立ち上がって、弥生が差し出したファイルを受け取った。
 「やけに感傷的じゃないか?」
 「……そうか?」
 「ああ。悪いモンでも食ったのか」
 「気のせいだよ、小次郎」
 誰かが事務所の応接室にあるテレビの電源を入れた。遠くから、ニュースを読み上げるアナウンサーの無機的な声が届いてくる。
 『先月、政界のドン、銭丸元副総裁を巻きこんでの摘発となったいわゆる“ゼネコン疑惑”の衝撃は、ますます波紋を広げています。五億円不法献金のほか、所得税数億円を脱税した容疑でも逮捕された副総裁に、捜査の手はさらにのびている模様で……』
 ニュース音声にかき消されるように、弥生の顔に浮かんでいた妙な悲しげな表情も薄れていった。もとのキリリとした彼女に戻って、オレが抱えたファイルをびしっと指差す。
 「ちゃんと見とけよ、小次郎。あたしがまとめた資料なんだからな」
 「へいへい」
 オレはファイルを鞄に入れて、外に出ようとした。それから、ふと気づいて振り返る。
 「あーっと、そうだ、弥生」
 「なんだ?」
 「金貸してくれ」
 オレが軽い口調で言うと、弥生の眉が般若のように盛り上がった。
 「あ、いや、その。昨日飲みに行ったときに、なんかなー、つかっちまったんだよ。すぐ返すって。ほら、給料日……」オレは事務所の壁にかかっているカレンダーを横目で見た。明日だ。
 「明日だし、ははは」
 ふざけた態度に、弥生の顔がどんどん険しくなる。それを見るとついつい笑いたくなってしまう。それにしても、弥生が真面目になるほどふざけてしまうのは、なんでなのか……?
 「わかったよ。ほら」
 弥生は盛り上がった眉のままで、財布から一万円札を二枚出し、オレに渡した。オレは「すいませんねぇ、へいへい……」と言いながらそれを受け取り、財布に閉まった。
 弥生がオレをじっと見ている。吸いこまれそうな大きな瞳。オレが「すぐ返すって、すぐ」と言うと、弥生はヒラヒラと手を振って、所長室のほうへと消えていった。
 応接室のテレビからは、相変わらずニュースが流れてきている。
 『大手ゼネコン各社から政界へ流れた巨額の闇献金がどこまで白日の下にさらされるのか。検察はどこまで事件の核心に迫れるのでしょうか。ではここで、街を歩く皆さんの怒りの声を聞いてみま……』
 オレは桂木探偵事務所のドアをグイッと押して、大股で外に出た。



 私鉄沿線の某駅を降りて、オレは、弥生から受け取った資料にある家に向かっていた。
 例の浮気調査だ。
 妻の名は八坂玲子。地方公務員として地元区役所に勤める夫とは七歳違い。そして、ええと……。
 オレはポケットから 「桂木探偵事務所手帳」 を取り出した。調査資料から写した女のデータを確認する。
 妻、玲子/年齢三十七歳/結婚二十三年/専業主婦/平日は午前中に家事と買い物をすませ、週三回近所のスポーツクラブへ/週末は家族と共に過ごす/趣味は特になし/月に一度か二度、電車で二時間ほどかかる実家へ顔を出す
 四月三日夜に電話で呼び出され、家族に黙って外出して以来、平日の昼間、必ず外に出るようになった。夫が電話をすると必ず留守である。それについて言及 すると、そのたび「実家に戻っていた」「スポーツクラブに行っていた」「デパートに……」云々と言い訳するが、様子がおかしい。
 旦那は「男ができたのでは」と調査を依頼してきたわけで、この書類を読む限りでは、確かに、ごくごく平凡な主婦の浮気ってなところだった。スポーツクラ ブか、買い物に行った先で出会った若い男。もしくは遊び慣れた妻帯者が相手。平凡な日常から脱却したくて、ハマッてしまう。おきまりのパターンだ。
 つまり、今日もオレは退屈しながら、よくある情事の記録を取るってわけだ。
 オレは分譲住宅である八坂家に続く坂道を歩きながら、う〜んんん、と唸った。
 ……オレの明晰な頭脳は、いまこうやって歩きながらも着々と、この女に関するデータを分析し始めている。八坂玲子は、おそらく……平凡で、ありきたり で、そのくせ「あたしだっていい思いをしたい」って欲望だけは人一倍強い、どこかいつもイライラした中年女だ。このタイプは、こっちの予測通りの動きしか しないって相場は決まってる。二、三駅離れた町の喫茶店ででも男と待ち合わせ、人目を気にしながら会って、こそこそ帰っていく。その割に隙だらけで、証拠 を揃えるのは簡単だ。尾行を始めればその日のうちに、相手の男の正体が判明し、密会現場の写真を提出できるはずだ。
 つまりこの件は、オレ様ほどの凄腕が乗り出すまでもない。簡単な仕事ってことだ。
 張り込み始めて小一時間ほどで、八坂玲子は家を出てきた。駅に続く坂道を早足で下り始める。
 ほーらな。このまま電車に乗って、二、三駅先の駅で降り……て……。
 おや……?
 オレは不審に思った。
 出てきた女は、調査書類に同封された写真と同じ、ロングヘアにはっきりとした顔つきの、ちょっと崩れた色気の漂う年増女だった。数ヶ月前に撮った写真よ りパーマがとれて、そのぶん印象は柔らかくなっているが、顔立ちのきつさは遠目からでもわかる。化粧をすればもうちょっと見れる女になりそうだったが、今 日の彼女はノーメイクで、おまけにグレーのトレーナーにスパッツなんて格好をしていやがる。
 おいおい。
 これから浮気相手との密会だってのに、そんな格好ででかける女がいるか?
 しかも八坂玲子は、時間ぎりぎりに家を出たらしく、やけに早足で駅に向かっていく。途中の商店街を抜けるときも、時計店や家具屋の前にある鏡をチラリとでも覗くそぶりさえ見せない。
 自分の様子が気にならないのか?
 デート前の女ってのを尾行すると、ほぼ全員が“鏡センサー”と化したかのように、通りにあるすべての鏡……どんな小さなものでも……に反応し、必ず覗き こんでは、もうわかってるはずの化粧のノリや前髪の流れ具合をチェックし、自分にゴーサインを出してからまた歩き出す。オレ様はいつも、その仕草を見て、 これからの女の行動を予測する。次の動きを推理することだって、尾行術の一つだからな。……と、まぁ、おやっさん、桂木源三郎に教えられたわけだが。
 うーん、これは……デートじゃねぇな。
 おおかた、旦那の勘違いだ。
 オレは「がが〜ん」とふざけて呟き、その後、今度は真面目な顔になってチェッと舌打ちした。こういう場合、いくら正確な調査データを提出しても、猜疑心 に囚われた依頼人は納得しない。ちゃんと調べてないんだろうと怒ったあげく、ほかの探偵事務所に持ち込んで、同じことの繰り返し。
 そういうときに何を言っても無駄だ。なにも信じられないんだからな。哀れなもんだぜ、まったく……。
 そう思いながら、電車に乗り、数駅乗って降りた(ここだけは予測通りだ)八坂玲子を尾行し続けていたオレは、駅前の喧噪で立ち止まった女を見守りながら、自動販売機で買った缶コーヒーのプルトップを開けた。
 そして、その缶をポロリと手から落としてしまった。
 女が、駅前の人混みの中で、目指す相手をみつけて近づいていく。一言、二言言葉を交わし、お互い慣れた調子で並んで歩き出す。
 相手は、男だった。四十歳前後の、痩せぎすの男。
 やっぱり……浮気か?
 オレは舌打ちして、足元の歩道に転がった缶コーヒーを蹴り飛ばした。開いたプルトップからうす茶色の液体がドクッドクッとアスファルトを汚しながら、転がっていく。
 歩道から目を上げ、尾行を続ける。
 おい、八坂玲子さんよぉ……。
 裏通りへと入っていく中年カップルを尾行しながら、オレは心の中で毒づいた。  八坂玲子は、男と待ち合わせていた。二人で歩き出す仕草も親密で、なにやら“共通の秘密”をもつ二人って感じだ。パッと見ただけなら、中年のカップル、 結婚してるんじゃない、不倫相手との逢瀬だってふうに見える。予測通りだ。
 普通の探偵なら、そう結論を出すだろう。
 でも、オレは……自宅を出てきた八坂玲子の姿を思い出すと、どうしてもそうとは思えなかった。
 なにかおかしいんだ。
 この二人の会い方は。
 オレ様のカンがこう告げてる。


 こいつは、なにかあるぜ……。

<to be continue……>