The Beginning EVE 小次郎編 第二話 199X.4.10 曇ってきた午後 某私鉄沿線駅前 珈琲専門店 |
男と女は、喫茶店の一番奥のボックスに、沈みこむように体を縮めて向き合っていた。薄暗く、照明もあまり届かない席を選んで、さっきからもう二時間近くこそこそ小声で囁きあうだけだ。 オレはカウンターに浅く座って煙草をくゆらしながら、競馬新聞を広げて紙面に目を泳がせていた。 駅の裏通り、雑居ビルの二階にあるしけた喫茶店。昼間だというのに薄暗く、カウンターに並べられた サイフォン の強化ガラスは年季が入ってくすんでいる。コポコポと音を立てているコーヒーも、なんだかどろんとして、毒薬かなんかを煮込んでいるように見えなくもない。 「金なんてのは、あるところにはあるんだねぇ」 ふいに声がしたので顔を上げると、ちょび髭を生やした小柄なマスターが、真鍮製のコーヒーポットに息を吹きかけ磨きながらこっちを見ていた。 「あん?」 「これですよ、お客さん」 マスターが顎で、カウンター内に置かれた小型テレビを指し示す。桂木探偵事務所を出るときにもかかっていたゼネコン疑惑のニュースが、またべつのニュース番組でも流されていた。 「悪いやつほど金がたまるもんなんですかね」 「そんなもんだよ、マスター」 「コーヒー一杯、サンドイッチ数切れなんてちまちま売ってても、いくらにもなりゃしないってのにねぇ」 マスターは商売っ気のない様子で、しみったれたため息をついてみせた。 「こういうニュース聞くと、腹がたつ反面、金額が何十億円とか、何兆円とか、あんまり自分の生活とかけ離れてるんで、ピンとこないってのもありますね。一億円と十億円の違いなんて庶民にゃわかりゃしない。あーあ」 ため息をつき、それから一人でクツクツと笑ってみせる。 オレは競馬新聞から目を離して、マスターを見た。 「そんなに金がほしいもんかねー、世の中の連中ってのは」 「そりゃそうでしょう」 「ふーん。って、どれぐらい?」 マスターはポットにハーッと息を吹きかけながら、考え考え言った。 「あんまり金額がでかいと、わたしら庶民は逆にピンときませんからね。やっぱあれでしょう。この金で人生を変えられるんじゃないか、やり直せるんじゃな いか、新しいスタートラインがどこかに生まれるんじゃないかって思えて、冷静じゃなくなるのは……一千万円とか。それぐらいの……」 ポットをカウンターに置き、満足そうに磨かれた輝きをチェックする。 「もちろんまっとうにやっててもそうそう稼げないけど、チャンスがあればなんとかなりそうな気がする金額。違いますかね?」 「なるほどね」 「それぐらい手に入れば、たとえばこの喫茶店ぐらいの店を出す準備金の一部にはなる。手の届く金額だから、庶民だって夢を見れるんですよ」 オレが頷いたとき、奥のボックス席にいた八坂玲子が、立ち上がってこちらにやってきた。 長い髪がとれかけたパーマでうねっていて、それが血色の悪い痩せた顔にかかっている。女っぽいがどこか不吉な雰囲気もあった。オレは顔を見られないように新聞を少し高く掲げた。 女は不機嫌そうに眉をひそめ、マスターに声をかけた。 「ここ、煙草おいてんの?」 「……銘柄は?」 「なにがあんの」 マスターは髭をひっぱり、「セブンスター、マイルドセブン、ラッキースト……」いいかけると、女は乱暴にそれを制して「 マイルドセブン でいいわ」と言い、小銭をカウンターに叩きつけるように置いた。 ずいぶんイライラしているようだ。 マスターから煙草の箱を受け取り、離れようとして「テレビ、消してちょうだい」と険のある声で言う。マスターは肩をすくめて、バチンと電源を切った。 奥のボックス席に戻っていく女を横目で見て「えらい不機嫌だな。おおかた、別れ話がもつれてるってとこかね」と呟く。 オレは返事をせずに、競馬新聞に目を落とした。しかし、耳をそばだてて、奥の二人の会話を聞き漏らすまいと神経を集中する。 なんだかおかしい……。 オレ様の予感は的中。この二人にはなにかあるぜ……。 もう二時間ほどの間、二人は隅の席でこそこそと話しているだけで、なんの動きもないのだ。 オレはコーヒーのお代わりを注文し、ちらりとまたボックス席を見た。女はむっつりとしながらも、ときどき妙に目を輝かせて、熱心に話す男の目を覗きこんでいる。男は女がテーブルに投げ出した荒れた手を握りしめ、なにか説得するように話し続けている。 オレは男の顔を見た。 平凡な顔だった。ごく最近、かなりの日差しを浴びて焼けたと思われる赤らんだ肌をして、目は暗く深い沼のように濁っている。深刻そうな様子で眉間にしわを寄せているが、そのしわは深く刻まれ顔から消えなくなっている。 見ていると、男が、とつぜんちらりとこっちを見た。その眼光の意外な鋭さに、オレは一瞬緊張した。何気なさを装って、ゆっくりと、出てきた熱いコーヒーをすする。 二人が立ち上がった。ようやく出ていくらしい。 一応、写真を撮っておくか。オレは煙草に火をつけるふりをして、ライター型の小型カメラのシャッターを押した。かすかなカシャッカシャッというシャッター音を確認する。 女のほうが金を払い、二人が出ていった。 オレも立ち上がり、二人の後を追った。 その夜。 オレはため息混じりの口笛を弱々しくふきながら、夜風の中を駅に向かって歩いていた。 結局、半日かかって尾行したあげく、八坂玲子と相手の男は、駅前の喫茶店から、ファーストフード店、客の少ないバー……場所を転々と変えながらなにかの相談を続けていた。 一応写真は撮っていたが、これでなにが証明できるってわけじゃない。「奥さんには茶飲み友達の男が一人います。ずーっと喋ってました。いや、ほんとですって、あっはっはー」で納得する旦那がいるとは思えない。 オレ様なりの推理は幾つかあったが、それを論理でなく実際の証拠をつけて提出するためには、地道に尾行を続けなくてはいけない。たとえば、二人は同じ人 間を恨む同志で、力を合わせてそいつを闇に葬ろうとしている。同じ犯罪を目撃してしまった同志である。競馬の当たり馬を知っていてそれに賭ける金を集める 相談をしている……。 なんてな。 どっちにしろ、真相を知るためには、あと何日か尾行を続けて……。 ちぇっ。 めんどくせぇな……。スーパー探偵の天城小次郎が貴重な時間を費やすほどの事件とは思えないんだよなー。 夜風がひんやりと冷たい。ふいに自分のふく口笛が耳に響き、なんて寂しい音色を出しているんだろうと自分でもビクッとした。 口笛のふき方を教えてくれたのは、親父だった。 ずっとずっと小さい頃。自転車に乗るんでもなんでも器用にできたオレだが、なぜか口笛だけはうまく吹けなかった。休みの日にうちにいる親父が、夕方縁側 に座ってビールを飲みながらふざけて口笛をふき、流しに立つお袋にちょっかいをかける。(この歌知ってるか、おまえ?)(さぁねぇ……)(ちゃんと聞け よ。お母さんはいつも生返事だ。なぁ、小次郎?)(はいはい、聞いてるわよ。ふふふ……) うつむき加減で、少し唇を尖らせて口笛を吹いてみせる様子は、いかにも大人のやることという感じで、オレはかなり憧れた。コツを教えてもらって、ようや くスムーズに吹けるようになった。お袋は(あんたはほんとに父親似ね。そうやって口笛吹いてるとそっくりだわ)と笑っていた。 二人とももういないんだ……。ま、死んじまったんだからしょうがない。 オレは口笛を止めて、頭を振り、歩き出した。いまはオレは桂木探偵事務所にいる。あの二人……桂木親子が家族代わりだ。なんのかんのと言いながらも、探偵の仕事に精を出し、過去のことはあまり思い出さないようにして日々を過ごしている。 つまりオレは、明日も八坂玲子の尾行を続けて……。 「ちょっと、あんた。待ちなさいよ!」 地下鉄駅へ降りるコンクリートの階段を二、三歩降りたオレに、後ろから誰かが声をかけた。振り向くと、ついさっきまで尾行していた相手、八坂玲子が、歩道に仁王立ちしてこちらを睨みつけていた。 パーマのとれかけたロングヘアが、夜の風に揺られてふくらんでみえた。しっかりアイラインをいれたような、くっきりした瞳。背後に駅前のカラオケ屋の看板やパチンコ店のイルミネーションを背負って、オレを見下ろしている。 「……なにか?」 「あんた昼間からあたしたちのこと尾けてたんだって」 オレは眉をひそめ、沈黙した。 バレるような尾行はしていないつもりだった。ライセンス を習得するために相応の訓練は積んだし、おやっさん直々に教えられたことも多々ある。なによりプロとしての数年のキャリアがオレに大きな自信を与えていた。昼から二人を尾行し続けたあいだ、オレは、自分が一つのヘマもしなかったと断言できる。 オレの動揺を察して、女は、勝ち誇ったように笑った。 「あんたの初歩的な尾行テクなんか、彼にはお見通しなのよ。ずっと尾いてくるな、あの若い男、って、最初から言ってたわ。あんた、刑事?」 「……は?」 なんで刑事がおまえを尾けるんだ? オレは奇妙に思いながらも、一応、カマをかけてみることにした。 「刑事だったら、どうだっていうんだ?」 「どうって……」 オレの言葉に、女は殴られたように顔をのけぞらせた。 女の髪が、突然ふいた風に揺れた。瞳がキリリとつりあがり、唇の端が左右に裂けるように開いて、般若のようなひきつった表情が髪のあいだから現れた。 「どうって……こうよ!」 八坂玲子はつんのめるように階段を駆け下り、オレの胸に向かって転がり落ちるように飛びこんできた。 その手に光るものがあるのに気づき、オレは「んあ?」と片眉を上げた。 なんでだよ? なんでそんなモンもってんだ? なんでオレに向かってくる? たかが浮気だろ。旦那に謝って、男と別れりゃいいじゃないか。それとも、オレに虚偽の報告をしてくれと頼んでもいい。そこまで追いつめられるようなことかねぇ? すばやく上体をねじって、女の持つ凶器を避けた。女の体がオレの横を通過する寸前、両腕で腰の辺りを掴み、手に持った細いナイフをつかんでもぎとる。 オレの手からナイフが落ち、カランカラン……と虚しい音をたてて階段を転がっていき、コトンと止まった。 女は、般若のような顔のまま、その場に膝をついて、オレを見上げて叫んだ。 「ちくしょう、見逃してよ、もうちょっとなのよ!」 オレはきょとんとした。 もうちょっと? って、なんだ? なぜ八坂玲子は、オレのことを刑事だと思ったのだろうか。警察に目をつけられるような何かが、この女にあるということか。 いや……多分そうじゃない。警察が追ってくる可能性があるのは、おそらく、相手の男のほうだ。 それはいったい……? オレはカマをかけ続けることにして、努めて不敵な表情をつくってみせた。 「確かにそうだ。だが、もうあきらめたほうがいい」 女は唇を噛んだ。 「どうしてよ。こんなこともう二度とないのに、こんなチャンス逃したら、一生、あたしはただの主婦よ。ちくしょう……」 ……まーったく話が見えない。 だがオレは、なにもかも知っているような顔をしてみせ、頷いた。 「たしかにチャンスだな。だが、やめたほうがいい」 「いやよ。あたし、お金がほしいのよ!」 ……へ。お金? 「みみっちい生活はもういやよ。生活をきりつめて、なにを買うにもスーパーの特売日を調べて、おいしいもの食べたりいい服買ったりなんてできなくて……つまらない! つまらない! お金がほしいのよ。お金で変わるわ。せっかくのチャンスを……」 女は肩で息をした。オレを見上げる。大きな瞳から涙がにじみでて、頬をつたって落ちた。きれいな輪郭をしてるな、とふいにオレは気づいた。顔の美醜は骨 格で決まる。八坂玲子はけっこう美人だった。若い頃……独身で、生活を楽しんでいた頃は、街を歩けばけっこう目立つタイプだったに違いない。 生活が変われば女の顔も変わる。だが、取り返しのつかないほど変わってしまったわけじゃない。金とヒマをかければ、いまからでも、彼女は男を振り返らせる女に戻れそうだった。 八坂玲子は取り戻したいんだ、とオレは思った。なくしたなにかを取り戻したくてあがいている。 今朝、弥生が呟いた言葉がふいに脳裏に蘇った。 みんな探しているのさ、なくしたモノを なくした愛 いなくなったペット もしかしたらあったかもしれない未来 八坂玲子も探している。 オレだってそうなのかもしれない……。とうにいなくなった家族を、いまでもときどき夢に見てしまう。だから桂木親子の心遣いに甘える反面、どこかで抵抗 している。とくに弥生の愛情には、感謝しているのに、苛立っちまうことも多い。これは違う。これはオレの家族じゃない。誰か、取り戻させてくれ。なくした モノを……。 この女も一緒だ。なにかを取り戻したくてみっともなくあがいている。 だが……。 お金がほしい、ってなんのことだ? あの密会していた男はいったいなにをこの女にやらせようとしているんだ? ……きなくさい話であることは確かだ。 八坂玲子はふいに、なにかいいことを思いついたというように瞳を輝かせた。 「刑事さん、これ……」 バッグをカチリと開けて、なにか取り出す。茶色い封筒だった。薄っぺらく、ふきこんでくる風にペラペラと揺れている。八坂玲子はそれを、オレの胸ポケットに入っている桂木探偵事務所手帳に強引に挟み込んだ。 「これあげるわ。もうちょっとしたら、もっとあげる。だから見逃して。刑事さんも仲間になればいい、そうよ、そしたら……」 オレがなにか言おうとしたとき、二人の横を、黒い服をきた人影が通り過ぎ、足早に階段を降りていった。その手元をオレは見た。めずらしいな、革手袋なんてはめてやがる……? 地下鉄が到着したらしく、階段の下からたくさんの足音が響いたかと思うと、勤め帰りのスーツの男女や学生たちの姿が現れた。そのざわめきと足音に、胸の中でなにごとか呟いている女の声がかきけされる。 さっき降りていった黒い服の男が、階段下に落ちた八坂玲子のナイフを拾うのがわかった。そのまままた上がってくる。 八坂玲子が、オレの耳元に唇を近づけ、囁いた。 「すごい計画があんのよ。聞いたらあんた驚くわ。わたしたちがやるのはね……」 人波にまぎれて、黒い服の男が近づいてきた。八坂玲子が、あらっ、というように男を見て、オレから少し離れた。 男に何か言いかける。 向き直った女の胸元に、次の瞬間……。 なにかが突き刺さった。 オレは目を見開き、自分に向かって倒れてくる八坂玲子の体を凝視した。心臓の真上から細いナイフがまっすぐに突き立てられているのを「えっ、おい。あっ……」信じられない思いでただ凝視する。 やべぇよ、これは……。 八坂玲子は口をパクッと開き、なにか言いかけるような顔のまま……。 とっさに避けたオレがたったいままで立っていた場所に、どさりと米俵でも落としたような重い音を立てて、倒れた。 「…………きゃーーーっっ!!」 一瞬おいて。 階段を上がってきたOLがバッグを取り落とし、両手を頬に当てて、叫んだ……! <to be continued……> |