The Beginning EVE 小次郎編 第三話 199X.4.11 ぽかぽかした昼 某警察署 地下留置所 |
「なーに、やってんだ。小次郎?」 聞き慣れたハスキーボイスに、オレの躰がびくりと反応した。耳の辺りがざわざわする、独特の色っぽい声だ。 丸まって寝ていた躰をゆっくり起こそうとすると、固い寝床とじめじめした湿気のせいで、すっかり固くなってしまった全身がきしみ、オレは思わず呻いた。 不機嫌に躰を起こし、顔を上げた。錆がついて斑になった鉄格子の向こうに、桂木弥生が腕組みをして立っていた。 かっちりとした白いテーラードスーツに、皮のブーツ。腕には繊細なシルバーの時計が光っている。一分の隙もない、いつもの、桂木探偵事務所所長代理の姿だった。 それにひきかえ、もう一人の所長代理であるオレ、天城小次郎は……自分の姿を見下ろして、オレは皮肉っぽく唇の端を歪めた。くしゃくしゃになったジャ ケット、留置所の汚れをケツと足で掃除してやったかのように、黒く変色しちまったベージュのボロチノパン。ノミでもいるんじゃないかってくらい頭は痒い し、昨夜からいやな汗をたくさんかいたせいで、頬から首にかけてべたついて、我ながら気持ち悪い。 オレが女なら、こんな目も当てられない状態の男を見たら……いや、よけい惚れちまうな。モテる男ってのは、ボロボロになってても絵になるモンだ。たとえば、いまのオレみたいな……。 チラリと弥生を見ると、冷め切ったような、こちらの体温まで3度ぐらい下がりそうな目つきで、黙ってオレを見下ろしていた。 「…………おいおい」 「は?」 「いくらなんでも、そんな目で見るなよ、弥生」 「どんな目だ?」 オレがため息をつくと、弥生は「便所でゴキブリを見るような目か?」と言った。それからプッと吹きだして「拗ねるなよ、小次郎。だれもそんな目で見てないぞ。おまえの被害妄想だ」と言い、鉄格子に近づいてこっちを覗き込んだ。 「それより、説明しろ、小次郎」 「どうもこうもないぜ。昨日、尾行してた例の浮気妻……八坂玲子が、オレの目の前で殺されたんだ。殺ったのは、密会の相手だった黒い服の男。だが……」 オレは留置所の汚い壁によりかかった。……いまさら少しぐらいジャケットの背中が汚れたって、知るもんか。いい男だからな。絵になるからな。気にしないぞ。 「駅の階段を上がってきた通行人はいたのに、誰もその男のことを覚えてない。悪いことに、ナイフにはオレの指紋がベッタリだ。あいつは革手袋をしてたしな。まぁ……」 オレは肩をすくめた。 「なるようになるさ、弥生」 「機嫌が悪そうだな」 「この状況で上機嫌だったら、ヤバいぜ」 「確かに、おまえのやりそうなヘマじゃない。だが、おまえの言動は予測がつかんからな」 「桂木所長にはお見通しだったらしいけどな。よく、裏をかかれてからかわれた」 「わたしはパパじゃない。…………その男の写真は撮ったんだろうな。証拠になるだろう」 オレは沈黙した。 喫茶店で八坂玲子とあの男の写真を撮ったのだが、そのことは刑事たちに話していなかった。あれがあれば、男を追うのに役に立つだろうが……刑事たちが最 初からオレを犯人扱いして失礼な態度を取ることにへそを曲げ、オレは意味のない軽口ばかり始終して、そのことを黙っていた。それに、ライター型の小型カメ ラのことに刑事たちは気づかなかったようで、身体検査などしたときも単にライターだと思いこんで、ろくに調べもしなかった。 「あいつらが勝手に調べればいいさ。だーってさ、オレの範疇じゃないだろう」 冷え切ったような沈黙が流れた。しばらく無視していたが、耐えきれなくなって顔を上げると、弥生ががっかりしたような、冷めたいやな目つきでオレを見下ろしていた。 「そうか……まぁいい。おまえの好きにしろ」 そう言ったものの、何か言いたげに、弥生はオレをみつめ続ける。オレはそれを無視して、ゴロリと横になった。 かすかなため息。それから、コツコツと遠ざかっていく足音。 誰もいなくなった鉄格子の向こうにチラリと目を走らせると、弥生がいつもつけている香水の残り香がふんわりと漂ってきた。 オレはギュッと目を閉じた。できれば鼻も閉じたかったが、あいにくそんな特殊技能は持ってない。息が苦しくなるだけだ……。 寝返りをうつと、深い深いため息が出た。 警察署を出れたのは、それから三時間ほど経ってからだった。昨夜、倒れた八坂玲子を見て悲鳴を上げたOLが、ショック状態からようやく回復し、女を刺したのがオレじゃなく黒服の男だったことを証言してくれたからだ。 「出ていいぞ」 そっけない一言で、昨夜からオレを犯人扱いしていた刑事が、オレを警察署から追い出した。戻された手荷物から腕時計を拾い出し、腕につけながらついでに時間を見た。 午後三時を少し回っていた。オレは頭をぼりぼりかきながら電車に乗り、空いている座席に大股を広げて座り、ぼんやりと車両の天井を見上げた。 このまま乗っていれば数駅で桂木探偵事務所のある駅に着く。その手前で急行に乗り換えれば、二十分ほどで自宅に着く。 自然に足が動いて、電車から降り、向かい側のホームの急行に乗り換えた。そんなに清潔好きなほうとはいえないが、仕事に戻るよりなにより、まず熱いシャワーでも浴びて汚れや不快感を落としたかった。もとのいい男に戻れば、気分も晴れるってモンだ。 急行は混んでいた。吊革に掴まりながら、オレは考えにふけった。 とつぜん殺された八坂玲子。彼女と会っていた黒い服の男。おそらく刑事に追われるような何かをやらかしている。 八坂玲子の謎の言葉……。 こんなこともう二度とないのに。 こんなチャンス逃したら、一生、あたしはただの主婦よ。 ちくしょう……。 あたし、お金がほしいのよ! 意味はわからなかった。だが、八坂玲子が殺されたことと、彼女が手を染めかけていた“何か”が関係あるのは確かだ。そして、それはあの男が握っている。 …………なんなんだ。なにがあるんだ。 不快感と胸がざわざわする焦燥感を持て余しながら、オレはマンションに戻ってきた。 大通りから少し奥まったところにある、タイル張りのマンション。築年数は少々古いが、そのぶん家賃も安いし、事務所までの交通の便もいい。住宅街だから夜中に騒音に悩まされることもなく、オレはこのエクレール・マンションがけっこう気に入っていた。 エレベーターを降り、二階の左端にある自分の部屋に入る。2LDKの、壁に絵が飾られているぐらいで後は殺風景な部屋に入っていくと、キッチンから声がした。 「無事に出られたようだな、小次郎」 オレは振り返らず「おっ…………いたのか」と短く答えた。 キッチンから軽い足音が近づいてきた。薄緑色のエプロンをつけた弥生が、菜箸を片手に、壁によりかかってオレをみつめていた。 料理の途中だから、ロングヘアを無造作に後ろでまとめている。そうしているとおさげにしたりポニーテールにしたりしていた高校時代の弥生みたいで、オレ はいつも、ほんの少しだがドキリとさせられる。オレよりずっと成績優秀で、真面目が取り柄みたいなところがあった優等生の弥生は、なぜかオレに訊いてから じゃないと行動しないことが多かった。(小次郎はどう思う?)(どうして小次郎はそうするんだ?)オレが両親を殺されて自暴自棄になり、姿を消したり、ボ ロボロになって桂木源三郎に保護されたり……そんなふうにして弥生と会わないうちに、弥生は少し強くなった。オレからちょっと離れたところにいつもいて、 オレを見守るようになった。そして、自分のことは自分で決めるようになった。 そのぶんオレはちゃらんぽらんになった。 そんなわけで、ときどきふいに現れる、過去の亡霊のような幼い弥生に、オレはドキリとさせられる。オレがまたしっかりしなきゃいけないような、弥生を守らなきゃいけないような気がしちまうのだ。 だから、こういう瞬間は、オレは、ちょっと、苦手ではある。 「いたのか、はないだろう。ここはわたしの部屋でもある。……いまはな」 「まぁ、そうだ」 桂木源三郎が行方不明になったときから、弥生はこの部屋でオレと暮らしている。父親と二人暮らしだったせいか、弥生は家事全般がうまかった。それに、部 屋の中にぬいぐるみだのレースのドアノブカバーだの、わけのわからないラブリーグッズを持ち込んだりしない。だからオレはいまのところ、意外と快適な生活 を送れていた。最初に弥生を受け入れたときには、少々覚悟したんだが……。 「なにか食べるか? 週末だから、料理の作り置きをやっていたんだ。来週も忙しそうだからな」 「いや、いらない」 「……そうか」 かすかにがっかりした響きがある。オレはジャケットを脱いでソファの上に置こうとして、胸ポケットから覗く桂木探偵事務所手帳と、それに挟まれた茶色の封筒をみつけた。 封筒を覗くと、一万円札が一枚入っていた。死ぬ前の八坂玲子がオレに押しつけた金だ。少し迷ったが、死者に返すってわけにもいかないしなー、と、オレは無造作に封筒から札を出して、弥生に渡した。 「昨日借りた分、返すぜ」 「……急がなくていいのに」 「借りは返したい」 弥生はため息をついて「機嫌悪いな、小次郎は」と言った。 「機嫌の悪いとき、小次郎は他人行儀な態度になる。そうすると、わたしはけっこう……」 「けっこう、なんだ?」 「けっこう辛いんだ。わかっていても、辛くなる」 弥生は菜箸を所在なげに手の中で回し、うつむいて、キッチンに戻っていった。オレはその後ろ姿をちょっとだけ見送った。早足でバスルームに向かい、さっさと服を脱いで蛇口を捻る。 熱いシャワーが全身を生き返らせる。オレはごしごしと頭を洗い、汚れきった全身も乱暴に洗った。 けっこう長い時間バスルームにいたが、そのせいか、バスタオルを巻いて出てきたときにはだいぶ気持ちが晴れて、留置所にいる間に澱のようにたまった憂鬱 な気分はどこかに消えていた。腹も減っている気がして、弥生の手料理でも食おうと、キッチンに声をかけた。 返事は聞こえない。オレはドライヤーで髪を乾かし、リビングに戻った。 やっぱり、あの小型カメラで撮った写真を、弥生の言うとおり刑事たちに見せよう。へんな意地を張るのはよくないな。オレ様ともあろうものが、大人げない。飯を食ったらさっきの警察署に電話をして……。 「おーい。やよーい、弥生ちゃー……ん……?」 あれっ? リビングはシンとしていた。ソファとテレビだけが目に付く、ガランとした殺風景な部屋。ソファの前に置かれた小さなテーブルに、弥生の細いがしっかりした字で、メモが残されていた。 友達が国立K病院に入院しているので、 ちょっと見舞いにいってくる すぐ戻る オレは、ふーんと頷いて、メモをくしゃくしゃにしてゴミ箱に放り投げた。 弥生のいない部屋は空気までも冷たくて、シャワーで温まった体を悪戯に冷やしていくような気がした。 弥生ぃ、なんでいないんだよー……。 オレは少し苛立ち始めた。愛しいような、上機嫌な気分が戻ってきたときに限って、でかけちまうなんて、なんて女だ。勝手なもんだが、オレはちょっとだけ 口の中で悪態をついた。リビングの隅に弥生が持ちこんだパーソナル・コンピュータを起動させ、ゲームでもやってみたが、手持ち無沙汰な落ち着かない気分は そんなことでは消えなかった。 弥生。こら。 友達の見舞いなんかさっさと済まして、はやく帰ってこい。 ……それきり弥生は戻ってこなかった。 時計の針が夜八時を指し、九時を指し、十時を指し……。 キッチンに、下味をつけたチキンや下ごしらえした野菜がところ狭しと置かれている。明日の朝出すためにまとめられた燃えないゴミの袋も玄関に置きっぱな しになっている。クリーニングから戻ってきた女物のスーツも、袋から出さずに無造作にクローゼットにかけられている。 もう腹は減っていなかった。どこかでフラフラしてるんならいいが、弥生は時間通り、きちっと行動する女だ。“すぐ戻る”とメモを置いたのに時間がかかる場合は、いちいちいいと言っていても、必ず電話をかけてきて、帰宅時間をオレに告げる。 弥生…………。 時計の秒針と、オレの心臓の鼓動が、段々大きく響き始めた。心臓のほうだけどんどん早く、大きくなり、オレは不安に飲み込まれまいと何度も大きく深呼吸する。 時計の針が十一時を回ったころ……。 ふいに電話が鳴った。 オレはビクリとして立ち上がり、それから大きく息を吸って、受話器に手を伸ばした。 「……もしもし」 『……………………』 電話の向こうは無言だった。「弥生か?」小声で聞くと、かすかにきしむようないやな笑い声がした。 「……誰だ?」 『天城さんのお宅ですかね』 聞き覚えのない声。喉を潰したようなかすれた不快な声だった。男だ。 黙っていると、男はまた笑った。 たてつけの悪い窓を開けたときのような、金属がこすりあわさったときのような、不快でたまらなくさせる笑い声……。 オレが電話を切ろうとすると、男は言った。 『切らないほうがいい』 「どうしてだ?」 『切ったら……』 「切ったら?」 男は笑った。 そして、低い声で言った。 『女を殺す』 <to be continue……> |