The Beginning EVE
小次郎編 第四話

199X.4.12 いやみなほど快晴
大阪市北区 某都市銀行支店


 ウィィィィィィィィン…………。
 甲高い音と共に、札の束が機械の口に消えていく。
 オレはゴクリと唾を飲み、体を固くして待った。
 機械のモニターには「計算しております。しばらくお待ち下さい」の文字とともに、深々と頭を下げる女子行員のイラストが映し出されている。
 ほんの数秒のことなのに、異様に長く感じられる。柄にもなく額から脂汗が流れ落ち、目深にかぶった野球帽はじっとりと濡れている。白いマスクの中も、あれた息のせいで熱がこもり、気持ち悪い。
 こっ、この天城小次郎ともあろうものが、こんなに緊張するとは……。
 オレが深い吐息をついたとき、ピーッという機械音の後、ウィィィィィィィィン……とまた音がした。機械が口を開け、札束を吐き出す。
 無造作に掴んで、皮の旅行バッグに詰め込む。
 同じ動作を三回ほど繰り返し、その銀行を後にした。
 換金額、七十万円。
 次の場所に移動だ。はやくしなくては……銀行の壁に掛かる時計を見上げた。午後一時を過ぎている。三時までに大阪を出ないと、約束の時間に間に合わない。
 弥生……!
 オレは心の中で呼びかけた。
 待ってろよ、弥生。オレ様は必ず、おまえをみつけだして、そして……。
 連れ戻すからなッ……!


 昨夜の電話は、唐突だった。
 出かけたまま戻らない弥生を心配していると、とつぜん、見知らぬ男から連絡があった。「女を殺す」シンプルな脅しだった。
 オレだっていくつかの修羅場をくぐり抜けてきた男だ。おやっさんみたいなプロ中のプロにはまだかなわないが、素人のヤツらみたいにおたおたしたりしない。こういうときの行動マニュアルだって頭に入ってる。冷静に動くことはいくらだってできる……。
 そうとも。できるはずなんだ……。
 人質に取られているのが、桂木弥生じゃなかったら、な。
 弥生の身に万一のことがあったら……と思うと、オレの頭はヒートアップして、なにがなんだかわからなくなった。男は続いて、弥生を捕らえてからの彼女と の会話を録音したテープをオレに聞かせた。うまい手だ。直接電話に出させても、弥生みたいに責任感の強い女なら、オレに無茶をさせまいとひとっことも口を 聞かないか、なにげない会話にヒントを混ぜ込もうとするかどちらかだろう。録音されているとは知らずに話している弥生の声は、オレにもっとも効く毒だっ た。


  殺すなら、殺せ
  小次郎はこない
  あいつはそんなに あたしのことを好きじゃないんだ
  気づいてた あたしたちはつきあいが長くて……ただ、習慣で一緒にいるんだ
  小次郎はこないよ パパもいない
  あたしのためには誰もこない


 その後、長い沈黙の後、テープは切れた。
 これが直接言われたことだったら、オレはまったく気にしなかっただろう。弥生の寂しがりはいつものことだし、オレが冗談めかせてはぐらかすのも、いつも のことだ。それは長い間に、二人の間のゲームみたいになっていて、弥生の涙も、別れたいんだなんておきまりの台詞も、オレはあまり本気にしていなかった。
 でも、テープに録音されたこの静かな声は、まるで弥生が本当にそう思っているようで……オレの誠意の存在を心底、あきらめているようで……。
 オレはへこんだ。
 よっしゃ、このオレ様、天城小次郎様の誠意ってヤツを、寂しがりのおばかな弥生に、わからせてやろうじゃないか。
 そう思った途端、電話の向こうで、男がキリキリと歯ぎしりするような妙な笑い声をたてた。
 『条件。まず一つ。私を撮影したフィルムを焼却処分すること』
 「…………………………わかった」
 多くの説明はいらなかった。互いに素人じゃない。ごちゃごちゃ言われなくても、いまの一言で、男が“自己紹介”したのだとオレ様にはわかる。
 “私を撮影したフィルム”。
 つまり、この、弥生を捕らえて連絡してきた正体不明の男は、アイツだということだ。
 オレが尾行していた浮気妻……八坂玲子と密会していた黒服の男。八坂玲子をナイフで一突きし、息の根を止めたあの男。
 『窓際に立て。大通りと逆のほうの窓…… 東京タワー の先端が見えるほうだ。カーテンを開けてライターを出せ』
 オレは絶句した。そして言われたとおりにした。
 カーテンを開けると、夜景が見えた。都心というほどではないが、この二階の窓はちょうど近くにビルがなく、意外と見晴らしがいい。かすかに東京タワーの先端が見えるのも気に入っているところだ。
 そして、遠くにチカチカと光って見える、無数のビルやマンションの窓。
 その中のどこかの部屋から、男が望遠鏡を使ってオレを見ているに違いない。どの辺りか推理することが不可能なほどの無数の光。
 相手はプロだ。やることに隙がなく、嫌味なほど落ち着いている。
 『中からフィルムを出せ』
 「…………出したぜ」
 『燃やせ』
 オレは躊躇した。これを燃やしたら、男が八坂玲子といたことの唯一の証拠が消えてしまう。大切なフィルムだった。弥生を助けるためにも必要なものだった。
 だが……。
 耳に蘇る。弥生の泣き声。


  小次郎はこない


 やめろ、と耳を塞ぎたくなった。こないなんて言うなよ、オレは行く。おまえを助けに行くんだからな。必ず。この天城小次郎を信じないなんて、弥生って女はどうかしてるぜ。


  あいつはそんなに あたしのことを好きじゃないんだ
  小次郎はこないよ パパもいない


 やめろよ。
 確かにおやっさんはいない。娘の一大事だってのに、どこにいっちまったんだかわからない。でもオレはいるじゃないか。ここに。こないなんて言うな……。
 オレはゴクリと唾を飲み、電話機の子機を耳と肩にはさんで、片手に取り出したフィルム、片手にライターを持った。
 カチリ、と火をつける。
 黒いフィルムがゆらりと燃え上がり、オレの指に向かって丸まってきた。弥生の愛用する灰皿に向かって、落とす。
 繊細なデザインのバカラの灰皿で、フィルムが灰になっていく。
 『……いい子だ』
 男はクツクツと笑った。
 『その灰皿で、また、彼女が煙草を吸える日がくるといいな。おまえ次第だ』
 「だったらもう答えは決まってるぜ。オレに不可能なことはないんだ」
 『おもしろい男だ。条件。二つめ』
 オレはライターを床に投げ捨てた。カチャンと大きな音がして、ライターは蓋が取れて転がった。
 『おまえ宛の電子メールを見ろ』
 「メールだと?」
 『そうだ。実行すれば女は助かる』
 「実行って、なにをだ……おいっ」
 電話は唐突に切れた。ツーッ、ツーッ……という音を、あきらめきれずにしばらく聞き続ける。
 子機を床に投げ捨てた。
 弥生!
 オレはリビングを横切り、乱暴に彼女のパソコンを起動した。機動するまでの時間が長く長く感じられ、苛ついて意味もなく歩き回った。……頭脳明晰で冷静沈着、数限りない難事件をクリアしてきたスーパー探偵とは思えない態度だ。
 落ち着け、オレは天城小次郎だ。不可能なことなんてない。
 メールを受信する。
 男からのメールはシンプルだった。大阪行きの航空券を手配すること。明日の朝には大阪についていること。指示に従って、受け取った金(番号を変える必要があるらしい……つまりワケありの金だ)を両替すること。
 オレはすべてを桂木探偵事務所手帳に書き写した。
 金、か……。
 いやな予感がした。
 八坂玲子が呪文のように繰り返していた……狂ったように欲しがっていたモノ。
 差出人の名前は「非公開」だった。せめてイニシャルでもわかれば……いや、そんなヘマをする相手じゃないだろう。ちくしょう、なにもわからない。やられっぱなしなんてオレらしくない。
 大阪……。
 オレは唸った。
 行くしかあるまい。


 そういうわけで、オレは野球帽にマスクという怪しげな姿で、大阪市北区周辺の駅券売機、銀行両替機などを使っていた。
 オレが両替している金……一万円札は、全部で五百枚近くあった。
 これがどういう金なのか、なぜこんなことをしなくてはいけないのか、オレにはまだまったく掴めていなかった。ただ、逆算すると午後三時までにはすべての換金を終え、東京行きの便に戻らなくてはいけない。
 待ってろよ、弥生……。
 五件目の銀行で、いい加減慣れてきた作業を機械的にこなしているとき、それは起こった。
 ふいに、オレの目前の両替機から、機械の異常を知らせる警報音が鳴り始めたのだ。
 おりしも、閉店間際の午後二時半過ぎで、行内は制服姿のOLやビジネスマンなどで込み合っていた。早足で女子行員が近づいてきて、小動物を思わせるくりくりした瞳でオレを見上げ、「どうかしましたか」と訊いた。
 「さぁ。急に鳴り出しちゃってさ」
 オレは落ち着いて言った。
「失礼いたします。ええと……」女子行員は両替機の裏側を開けて点検し始めた。「八枚詰まってますね。……うんしょっ」オレは手持ち無沙汰に、これから換金しようとしていた札を手にしたまま、射し込む西日にすかしてみた。
 「………………んっぐおっ」
 「はい?」
 絶句するオレに、女子行員がきょとんとした顔を上げる。すごくかわいいが、いまはそれどころではない。
 この一万円札……スカシが変だぜ?
 妙にはっきり浮き出している。みためじゃわかんないが、これは……きっとプロが触れば一発でわかる、その……。
 「おわっ、やっべぇ!」
 「あの、お客様……?」
 「あっ、いや。なんでもない。いや、その、ははは……」
 オレはずり落ちそうだったマスクに手をやり、顔をすっぽり隠すようにした。「用事を思い出した。モテる男は忙しくて、ははは、じゃ、これで失礼」自分でもなにを言ってるのかわからない。オレは足早に銀行を後にした。
 「あの、お客様ッ。このお金……」
 「君にあげる。服でも買ってくれ」
 「はっ?」
 「足長おじさんからのプレゼントだ。もっとも…………」
 オレは駆け足になりながら、口の中だけで続けた。


 それ、たぶん“偽札”だけどなっ。


<to be continued……>